So-net無料ブログ作成
検索選択

エーテルとクロロフォルム [あ行]

まだやってんの……!?

……と周囲の人間に言われるんですが、いまも『カンパニュラの銀翼』の英訳チェック中です。
今月末には終わらせたいが……。

なんか途中で英訳者のかたの集中力が若干、尽きてきている感が……
一文やフレーズのみならず、段落がごっそり抜けている箇所も少なからずあり、
単なるケアレスミスなのか。
と思うと、恣意的な省略と思われる部分も多く、
どうやら面倒くさくなると、ざっくり中身を変えて省いちゃうのよね。ダチョウとエミュのくだりとか。
……ややや。ここまるっきりないぞ。
あ、全く身に覚えのない単語の羅列が……。
いずれもが、省かれたり変えられたりしては困る重要なポイントなのである。

で、私が英語で文章を書きくわえたり、
書き直したりせねばならない箇所も……という有様なのである。
そこはしかし外国語なので、すらすらとは捗らないのである。予想以上に。

むろん、私一人でこんな大量に訳せる筈がなく、訳者さまさまなのです。
英訳者が言語能力が長けていることは予想がつくのだが、
根本的に小説のなりたち、小説というものの何に気遣いが必要か……が、
若干Questionableなのは否めない……。

誤訳はもちろん、
物語に齟齬が生じる訳というのは困りものです。
訳文のテストだったら、けっして間違いにはならなくも、
単に、英訳文が文法ミスなく仕上がっていれば、
小説として通用するというわけじゃない場面は多々あるのだった。

たとえば。
81~82頁くらいに出てくるシーンで、
重傷を負って担ぎこまれてきたベネディクトに、殺してくれとシグモンドは頼まれる。
が、シグモンドは医者に命じるのだ。

《医者はガーゼにエーテルを染みこませ、ベネディクトの口元にしばらくのあいだ押し当てた。》

The physician moistened some gauze with ether and held it steady under Benedicts's nose.

と訳されています。全く問題ない。

で、後になってその時の出来事をシグモンドが回想し、エリオットに告白する。
かいつまんで当時の状況を説明するシーンが340頁目。
ここに至るまでに、当然すごく色々なことがあったわけで、訳者は忘れてしまったのだろう。

《私は医者に頼んで薬を嗅がせて、ベネディックを無理やり眠らせたんだ。》

この場面では、特に何の薬剤で麻酔をかけたか具体的に明記してはいないのですが……。

I had the doctor force him into sleep with chloroform.

→私は医者にクロロフォルムで彼(ベネディック)を無理やり眠らせたんだ。

クロロフォルム使ったことになっちゃってるのよ。
眠らせる薬→クロロフォルムと訳したのでしょう。
別に間違いじゃない、訳文としては。

しかし小説の翻訳としては大いに間違っている。

エーテル使って眠らせたので、ここで麻酔薬(narcotic)とせず、
あえて具体名を入れるのならば、前訳のとおりにether(エーテル)と訳してくれないと困るんだ。
クロロフォルムとエーテルはまったく別物の薬剤。
クロロフォルムは当時、etherほど普及していません。歴史背景の描写としても欠陥があるかと。

この話、幻想文学という把握もされていますが、ミステリーでもあるんで、
薬剤の名前が変わっていると、まるで他意があるかのように。
シグモンドが意図的に、エリオットに当初と異なることを織り交ぜて話しているのか?
エリオットを騙すつもりなのか?
それとも当初の記憶が覚束ないほどになっている?
……とか色々な齟齬が生じてきて、物語が成立しなくなる。
断じてクロロフォルムではいけない。

又、たとえば家系図のところ。

《リリィ・ウェラーは、エドガー・ヒューと結婚し、娘ラヴィニア・ヒュー、息子ヘラルド・ヒューを産んだ。》
――(中略)
《ヒース・コレットはラヴィニア・ヒューと結婚した。二人の間にできた子供は――(後略)》

ここで、ラヴィニアが最初、Evaniaと訳されています。
ヘラルドもGeraldoとなっている。
まず私はGeraldoをHaroldと直すのですが、
多分これは訳者のかたが、〔Haroldとしたいのなら、日本人はハロルドと書くのではないか。
ヘラルドの語感を生かすのならGeraldoのほうがそれっぽい〕と思いたったのだろうと予測。
わかります。直しますけれど。

で、ラヴィニアも、私のイメージではLaviniaのつもりだったのだが……とEvaniaねえ……
……どんなもんかしら、
と、次の《ヒース・コレットはラヴィニア・ヒューと結婚した。》の英訳を読み進めると、なんとLaviniaとなっている。

……ぬ。
語感で名前を訳するんなら、せめて統一してくれないと、
その都度、その都度の感覚で訳されては、いただけない……。
Evaniaと、Laviniaでは別人です。
それだとトミー・コレットが、誰の血を脈々と受け継いできているのか。
その重要な血縁が、途切れてしまうではないか。
齟齬が生じ、辻褄が合わない、小説のミスになってしまう。

たぶんパッと見て、大した意味がない一文に思えたのかもしれませんが。
大きな瑕疵に繋がってしまうんです。

不老長寿(eternal youth)を、Immortality(不死身)と訳されていたりとか、
こういうレベルの、文法上は誤訳とも言いがたいが、
小説上は、おもいっきり誤訳というのが物凄くあります。
不老長寿=不老不死と思ったのか?
しかし作中でしっかり、「不死ではない」と言ってるそばから、Immortal、Immortalって、
もうわけが分からないよ……(笑)

わたしは小説家になるまでは、大学の研究室の非常勤勤務でしたが、
そこで学術論文の翻訳チェッカー的な仕事も、わりと折にふれて携わる機会がありました。
この手の作業にある程度、馴染みがあるし、
一人の目では大量のミスがすり抜けてしまうのはわかります、なにしろ母国語じゃないから。
母国語だって、初校・再校と校正が必要なのだ。

学術論文は小難しいといえども、小説ほど長くない。
長いものは、チャプターごとに担当の学者がそれぞれあてがわれる。
学術論文・翻訳アンソロジー的な一冊を作り上げるのも、わりと一般的。
そんな短い訳でも、下訳チェックの時点で、ざっくざっく考えられないようなミスが……。
……こちら本当に専門家が訳してらっしゃるの、まじで。
……みたいな状況も珍しくなかったもの。
(日本の一流大学系で、自分の研究室を持って、留学経験もあって、おまけに准教とかじゃなく、教授だったりするお歴々でもです。)

他の作家の方々は、誰しもこの手の地道な作業を自分自身で網羅してきているんだろうか?
英語にアレルギーの人はどうなるんだ。

何ヶ月を要しても、一円にもなりはしないが、ただひたすら自分の小説への情熱で、
しこしことやる。
(しこしこ……とは最近、辞書の意味からやや外れた用途を多く見かけるが、本来の意味で、しこしこと。)
そんな作家って少ない気がする。みんな私よりもずっとスケジュールが差し迫って忙しいだろうから。
このわたしでもスケジュールのやりくりに困るほどだ。
こういう作業嫌いじゃないから……救いですが。

有名作家は、物語を精読・熟読したうえで、校正してくれる優秀な英訳チェッカーが居るのかも。

あ、でもたとえば村上春樹とか、当人も翻訳をしたりと、
それでいてまた海外で通用する英訳作品を出している作家は、
自分の英訳作品にも、やはり隈なく、目を通していると考えるべきだろうなあ。

そんなですが。

「ああ。そうしておくれ」
(292p、シグモンドの台詞)

→"See to it that you do not, please,"

……と訳されているのに出会ったときは、
この語調、まさにシグ! 本来、語るべき英語でまんまシグ!
と痺れたりと、
そんな素敵な英語も盛りだくさんなので、
私自身、できあがりを猛烈な不安とともに、物凄く楽しみにしながら、進めています。



共通テーマ: