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無縁坂と不忍池 [ま行]

そういや先週、亀甲貞宗を見に行ったんでした。

上野方面で野暮用があり、午前中からだるいけれども、こなすべき案件でした。
近いから昼下がりに! 亀甲貞宗を! 東博で見てから帰るんだー!
と、楽しみを設定したおかげで、さほど億劫でもなく、足取りも軽くなり、
どれだけ刀剣および刀剣乱舞に癒されているんだろうか、私は。

暑くもなく寒くもなく炎天下でもなく雨でもない、という気候が、
昨今の日本では本当に珍しい部類に入る。
恵まれた天気だったので、てくてく歩いて行ってまいりました。

で、だ。
良い感じの雰囲気の下り坂をてくっていたときに見つけました、無縁坂の標識。
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……無縁坂というと、
さだまさしの曲が有名です。
https://youtu.be/sxdgZhMokXY
グレープ 無縁坂

わたしくしこの歌、諳(そら)んじられます。二番まですらすら出てくる。
さだまさしの歌詞は文章になっている詩なので、スッと入ってきて覚えやすい。
わびしい暗い曲も多く、
わたしは暗い曲であれば何でも聞いた時期があった。
(さだまさしのファンの方々は概して、ほんわか明るい曲が好きなんですよね。
或いはラジオのトークの弾けたテンションだとかが。)

この「無縁坂」は、大抵「精霊流し」とセットで聞くものでして。
https://youtu.be/l8Oo89vah50
H264-01 精霊流し(1976.4.5 長崎市民会館 グレープ解散ライブ収録)

精霊流しはさだまさしの出身地の長崎を強烈に喚起させる内容なので、
無縁坂も、坂の多い長崎が舞台の坂ではないんだろうか。
文京区の無縁坂は、はたして歌の無縁坂なのか……?
無縁坂なんて坂の名前、どこにでも幾らでもありそうだし、
実在の坂というより、観念的な坂道にすぎない気もする。
……と思いながら、サビの

しのぶ~しのばず~無縁坂~ かみしめるような~♪
 ささや~かな……ぼーくの…

脳内で口ずさみながら足を運んでおりましたら、不忍池(しのばずのいけ)が!
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……ん?

忍ぶ……不忍……無縁坂……なのか!
無縁坂の目と鼻の先に、不忍池があるのだ。
するとこれは歌の無縁坂なのか。
しのばず……は、不忍池と、かけてあったのか。
知らなかった……。

などと今更ながらに発見しつつ、東博に着いたので、
(なにしろこの坂を通ったのも、不忍池の端を抜けたのも一度や二度ではない……
 ラルクのハイドが坂道好きで有名ですが、 「なるほど坂道とは、こうしてみるとなかなか乙な」
 とか感じ入って脳天気に通りぬけてただけでしたよ私は)
亀甲貞宗については次回upします。



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行間を読むというのはこういうことだよエリオット [か行]

そうシグモンドも『カンパニュラの銀翼』で言ってました。
(正確には「文間を読むとはそういうことなんだよ、エリオット」)

ポーの『大鴉』に関する考察的な①~の続き。

私は実は、それほどエドガー・アラン・ポーに親しんできたと誇れるものはなく、
留学先の大学の英文学の教本に載っていた
Cask of the Amontilladoについて、
中間試験用の小論を書いて提出したことがあるくらいでした。

今回、文芸作品の翻訳に携わるまで、ポーに関して原文で扱ったのは、
その短編にも満たぬくらいの掌握小説Cask of the Amontilladoだけ。

日本に帰国してからは『アッシャー家の崩壊』(佐々木直次郎翻訳)を、
青空文庫からダウンロードして、これは好きな作品で何度も読んだ。

あとの作品は常識の範囲で知ってはいるけど、通読したことはない、という状態。

日本語でも英語でも、そうまともに読みこんだことはなかった分、
偏った先入観もなく、まっさらな気持ちで深々とポーの文章に真っ向勝負で、潜っていった。

エドガー・アラン・ポーの『大鴉』の行間から私が何を感じとったか、
この作品を訳す上での全体的な色調やトーン(翻訳の方針、出すべき統一感)
隙間から見える景色とは、
端的に言って
「水、水辺」です。
……詩の舞台は、深夜のと或る部屋、暖炉・扉・床・窓辺・机・椅子近辺なのですが。

『大鴉』はざっくり言えば、
あの世とこの世の境目が夜更けに交わるような状況や錯覚を描いていて、
日本的にいうなれば、彼岸と此岸。

実際ポーも、大鴉がどこからどこにやってきたのかを、 
nightly shore
Night’s Plutonian shore
whether tempest tossed thee here ashore

などという語で表している。
彼岸と此岸という意識は、私が勝手に行間から汲み取ったのではなく、
作中でポー自身によって、かなりクリアに言明されているといえるかと。

韻を踏むための技巧のせいもあるとはいえども、
Night’s Plutonian shoreに至っては複数回、出てきます。

又、たとえば扉の上に掛かっている胸像を描写するとき、
placidという、
穏やかな水面を描写するときによく用いられる言葉を出している。

さらには、
as if his soul in that one word he did outpour.
このoutpourという語も、
感情のほとばしりを意味する動詞とはいえ、
水を扱うときの語。

ポーとしても、
水際や水辺といった雰囲気がひたひたと迫るように意識して、
あえて、この手の語を選んで、描いている。

stillness gave no token,
このstillnessも水を思わせますね。
Still water runs deep という諺がすぐ浮かぶ。
(ちなみに私はこの諺が意味深でなんか好き。)

このstillness gave no token,
「水を打ったよう、波風の兆しも見えぬ」
と水を意識して、私は訳しています。
このstillnessという語も『大鴉』の詩で度々、登場します。

詩の最後でも、
僕の浮かばれない影をfloatingという言葉で描写している。
Floatも浮くという、水にまつわる言葉。

逐一、挙げていくときりがない。
作中が、いちいち水を想起させる語で満たされている。

少なくとも私の中では、知らず知らずのうちに、
彼岸と此岸の往来、夜の水際の意識が、
脳内イメージとして蓄積されていたわけです。

訳す当初は、さほど強く意識していたわけではなかったけれども、
なるべく水を意識したいというイメージが、
無自覚のうちに芽生えていたらしい。

推敲する段階ではもう自分でもかなり意識的に、
水辺にこだわって一語一句を選んでいました。

冒頭のWhile I nodded, nearly napping,
「うつらうつらと舟を漕いでいた、まどろみかけていたところ」

うたた寝していた、居眠りしていた、といった系列の表現の中で、
「舟を漕ぐ」という表現をまず選んだ時に、
『大鴉』を訳していく上での雰囲気の方向性が定まったのだった。
あとは、夜の水辺の気配の中から、言葉を掬い上げていく作業。

there came a tapping
「雫のしたたり落つる音」

tapというのはもともと、タップダンスとかのタップ。
カツカツいう音なわけですが、
カツカツ、こんこん、コトコトといった類のオノマトペを安易に使うのは避けたかった。

日本語はオノマトペがかなり特殊というか、豊富にありすぎる。
もとの英語がオノマトペを使っていないので、
「もしもエドガー・アラン・ポーが現在、日本語が母国語になっていて同じ詩を書いたとしても、
絶対このオノマトペを使うと思う!」
と、よほど確信できる、しっくりくる語がない限り、
こと、詩においては、慎重に扱わなくてはいけない、と思っていました。

tapという単語はtap water (水道水)とかのtapでもあります。
やはり液体に関連する語。

tap(タップダンスとかのタップ)とtap(水道水とかのtap)とでは語源が全く異なるので、
はたしてポーがこの同音異義語を意識して、tappingを使ったか――
については、人によって解釈が異なるかもしれませんが、
私は無関係ではないと思った。

私自身が小説を書くときに、同音異義語は時としてかなり意識して用いている。
―隠微と淫靡とか―
―凶器と狂気とか―
―片身と形見とか―

隠微にいやらしい淫靡の意味はないのだが、
そこはかとなくそういったニュアンスを秘めたいときに使う。

凶器を、武器と言わないでわざわざ凶器と書くときには、
使うほうに必ず非があり、その非は、なんらかの狂気を伴うものかもしれない――

という可能性をさりげなく示唆したり、知らず知らずのうちに植えつけたりするときに使います。
なんとなく感じさせる雰囲気を言外に醸し出したいときに、
作家は――少なくとも私という作家は、そういった手法をとることも多い。

片身と形見については、
短編「セイヤク」や「゛極東での若き日々”」で、
実際かなり意識的に使った経験があります。

セイヤクのときには、編者の井上雅彦先生がこの同音異語に、
すぐさまピンと気づいてくださって
「いいですね」とコメントをくださった。

゛極東での若き日々”
においては、担当編集者がむしろ全く気付かず、
「なぜ片身のようなヴァイオリンという言葉を使うのか、単にヴァイオリンで良くないか?」
小説家は書き手のプロ、いっぽう編集者はいわば読み手のプロなので、観点が全く異なるのだ。
(尚、小説家が書き手のプロで、編集者が読み手のプロという、
この認識が双方で食い違うと、仕事をする上でギクシャクしがちだ。)

で、私はここぞとばかりに、かなり熱く、
「ここは片身という語から、形見というイメージを読者にできればそこはかとなく感じてもらいたい。
実際はそうと気づいてもらえずともよい。
知らず知らずのうちに作品の雰囲気にそういう意識を浸透させたい。
そういった意図で、片身という言葉をあえて入れている。
セイヤクという短編では、そこを評価してもらってもいる。そのときのと同じヴァイオリンです!」
と力説して、小説に書いた記憶があります。

小説に限らずとも、日常において語感と語意というのは意外にも作用しあっていると思う。
まったく同音なわけでなくとも、
たとえば「姑息」という言葉を「一時しのぎ」という本来の意味ではなく、
「卑怯な」といったニュアンスで使う、
いわゆる誤用のほうが、現況、7割の日本人に浸透しているらしい。
これは「姑息な」という音の語感が、「こしゃくな」という語感と似ているからでは?

『大鴉』の詩の中でtappingという語に出会ったときに、
私は水や液体のイメージを喚起されつつ、何か打ちつける意味をまっさきに受け取った。
そのニュアンスを的確に表せたら、と思い至ったのが
「雫のしたたり落つる音」

 尚、今回、翻訳し終えた後に、
 過去の訳者の『大鴉』の詩を二編ほど、探して読んでみました。
 いずれも「ほとほとと」という語が用いられていた。
 ほとほとは素敵ですが、
 原文はthere came a tapping
 a tappingなので、1タッピング。
 一方「ほとほとと」だと複数回、物音が鳴ってるような感じが強調される。
 無論a tappingで「ほとほととした音」1セットと考えることもできるし、
 オノマトペは雰囲気音感なので、一回二回とか厳密に数えきれる数量ではないのだが。
 
betook myself to linking fancy unto fancy
「夢幻の淵へと糸を垂らして爪繰った」

「淵」という語を出さなくても訳せますが、
前述の「舟を漕いでいた」という表現と同様に、
水を意識した「淵」という語を使ったほうが、より水際としての統一感が出ます。
押し寄せてくる彼岸と此岸のせめぎあい、
夜の淵の深みのような気配が、
ムードとして色濃く出るかと。

……と、まぁそんな感じで、終始、行間に、
ひたひたと夜の水辺を感じつつ、訳し終えたわけでした。

E・A・ポー (ポケットマスターピース09)
が刊行となったのち、本の編者であり立役者でもある翻訳家の鴻巣友季子氏から
「どのような経緯で、--a tapping--を--雫のしたたり落つる音--
と、中里流に訳すに至ったのか」という質問を戴いた。

「水です」
ちょうどこのブログに書いているようなことを、長々お答えしたところ、

《いいですね。tapと水、水の雫は自然と結びつく》
と、賛同いただけてとても嬉しかった。
《ついでに言うと、rapはlapとも重なる。波がひたひた、のような》
と。

まさに、そうでした! 大鴉の原文は
…napping
…tapping
…rapping
と韻を踏んであって、
rapはラップ音のラップ、連想されるlapは波が打ち寄せる、潮の満ち引きなどをあらわす動詞です。

さらには、
《ガストン・バシュラール「水と夢」にも、ポーにおける水と死と夜についてのimageryについて書かれていた》
とのこと。

……水と死と夜……
なんと私の琴線に触れる語であることよ!
私はガストン・バシュラール「水と夢」という著作を、
恥ずかしながら、まったく知らなかったので、
――読もう!

以来、ひそかに息巻いているのだが、
いまだ実行に移せていません。



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ポーの『大鴉』に関する考察的な① [は行]

エドガー・アラン・ポーについて思うところを後で補足アップします、
と、2016年6月19日付のブログに書いてから、はや4ヶ月。
夏が来て、夏が去っていったね。

小説について後で解説するのは、ネタバレを避けられない部分も多いし、
物語を楽しみたいのであって、作家を知りたいわけじゃない! という場合、非常に耳障りかと思う。
よほど伝えねばならないことが浮上してこないかぎり、
なるべく避けたほうが無難かな、というスタンスでいます。
が、翻訳については、ちょっと違う。

特に、今回のエドガー・アラン・ポー作品のように、
古式ゆかしい、すでに和訳された作品が、世の中にあまた発表されて読まれてきている、
年季のいった――言い換えれば、いろんな人の手垢もまたついている――作品の場合は。

一次創作の小説の場合(ノベライズとかじゃなくてです)、
作家は作品の世界観を構築し、登場人物をうみだし、物語を展開する。
その小説のいわゆる唯一の創造神なので、
作家同士が同じ作品の共同作業にあたるということは、まず有り得ない。
(少なくとも私は今までに一度もない)
万一、一次創作の小説において(役割分担をするにしろ)
共同作業をしなければならない事態に至るとしたら、
これはかなり不幸な状況なのだと思う。

唯一創造神がいるかぎり、仮に編集部や批評家などが変な意味をこじつけて、
本来の作品を歪曲させようとしたとしても(顕著な例だと、政治的プロパガンダに使うとかね)、
作家が「違います、正しくはこうです!」といえば、
それが絶対的な答えで、別解釈の余地はありえません。

むろん作家が「ここは読者の皆さん一人ひとりの解釈にゆだねます」といえば、
ゆだねられた読者の分だけ、答えが生ずることにもなる。

「作品としては読者の解釈にゆだねるけど、作者である自分としてはこういう意図で書いた」
と作者が白状すれば、「裏設定」になる。

作者が死んだ後に、
編集や批評家やらが「こういう意味だ」「ああいう意味だ」と、
こぞっておかしな教祖さながら的外れな解釈で売りこんだり、叩いたりした場合は、
「神を穢す」「冒涜(ぼうとく)する」という暴挙にもなるわけです。
やたらと称賛しまくるのも「下手な神輿(みこし)を担ぐ」ことに、ほかなりませんが。
で、熱心な読者やファンは、経典のようにその作品を繰り返し読んで、
あれやこれやと考えたり、思いにふけったり、浸ったりする。

いっぽう翻訳の場合は、訳者は、ふつう自分の作品を訳すわけではありません。
概して別国の、別言語を使う他人の作品を訳す。
訳者の性質は、いかに自分が、その原文の作品の理解者になれるか。
その作品を書いたときの作者(今回だったらポー)の精神を咀嚼できるか。
ポーのこだわりを一言一句に至るまで読み取れるか、とそんな能力や心構えが肝になる。
もちろん語学力が必要ですが、語学力はツールです。

で、ちょっと話がそれますが、作者が死んでいるわけではなく、超健在で、
ばっちり生きて目を光らせているにもかかわらず、
そして「すごく間違ってる、全然ちがっています。
こういう感じではないから。的外れな文章を付け加えて解釈を曲げたり、
重要な部分を大幅に削除したりしないでください」と伝えているのに、
「自分はこう訳したいから訂正は基本、受け入れたくない」というスタンスがもろ見えの、
英訳者・担当者・および英訳会社の態度は、一体どうなんだ。

日本人の作家である私が、『カンパニュラの銀翼(中里友香著)』の英訳文を
きちんと読めっこないと見くびって舐めていた、
(つか舐めている)としか考えられない……。

おかげで徒労感やら腹立たしさやらで、英訳チェック(2度目)に、ものすごく気骨が折れて、
ストレスホルモンのコルチゾールが大量分泌されそうになるので、つい後回しになる。

で、ポーの翻訳です。
ポーが生きていたらポーに訊けるが、1849年10月7日に亡くなっています。
(アメリカは1849年当時すでにグレゴリオ暦だから、当時のちょうど今くらいの季節に死亡です。)
これは訳者によって当然、解釈に、ある程度の差異が出る。
言語の誤差や間違いは簡単に正せようとも、
解釈の誤差は、もはや簡単に正せる云々できなくなっている。
ポーに関しては純粋に楽しむだけでなく、研究している人などもいるので、
訳者・中里友香はこういう視点から、このように解し、このように訳した、
と、ある程度クリアにしておくべきか、と思った次第です。
特に詩「大鴉」は――。

短編「告げ口心臓」は、原文自体がシンプルだから、
さほど、訳者の視点や特色に大きな差は生じない、と楽観視している。
……いや、その『告げ口心臓』ですら、かなり見解の相違があった。
わたしは「やみのいろ」というエッセーで書いたように解釈しています。
つまり「自分を正常だと盲信している狂人の詳細な自供」と。
(ポーはこのほか例えば「ウィリアム・ウィルソン」という短編などでも、
信用できない語り手である主人公が自縄自縛に陥るブーメラン的オチをよく使っていますよね。)

その「告げ口心臓」が『ポケットマスターピース E・A・ポー』の巻末にある池末陽子さんの解説だと、
「超自然的方法での犯罪の暴露」
正反対ともいえる解釈の仕方で、
へーえ……あれを魔訶不思議系な事象として解釈するのか……と驚いた。
(無論どっちにも読み取れるように訳しています。)

『大鴉』の詩に関しては、ポー自体が机上に10年以上、ずーっと置いておいて、
その間、長らく放置していたり、
かと思えば、ああでもない、こうでもないと、こねくりまわしたりした挙句、
書き上げた代物なので(……と、ポー自身があとで語っているのが残っていたかと)、
さらっと読んで内容を訳せば済むという詩ではない。

行間に何があるかを感じ取っていくわけです。
だからこそ訳者によって差異もあろう。ポー自身、行間になにがあるかを感じ取らせたいと思って、
書いた部分も多々あろう、と。

なお昨今、
「英語は本来、文章にして書かれていることを、真っ直ぐそのままに受け取る文化でなりたっている。
日本人は行間を読もうとするからこじれる。曲解して、意味が順当に通じなくなる。よろしくない」
という見解と、
「何を言ってる、read between the lines:行間を読むという表現の語源は、もともと英語だぞ。
英文こそ行間を読んでなんぼ」
という主張とが、飛び交っていますね。

私からすると「どっちも正しいよねー、ケースバイケースだよねー」という感じです。

学術論文や新聞記事、ビジネスレターやレポート(報告書)などは、
書いてあることをまず吟味するのが大前提であり大切です。
書いてある内容を精査もしないで行間を読もうとするのは、
筋違いだし、怠慢だし、ほとんど無意味か、悪影響すらある。

いっぽう、詩とか手紙文とか創作物に関しては行間を読むことは大切だし、必要でもある。
詩に関しては逆に、
大げさに言えば、行間を読ませるために原文が構築されていたりもするくらいだ。

ちなみに日本人がよくやりたがるのは行間を読む、ではなくて、
正確に言えば「裏を読む」だと思う。

古来、日本語の表現に「行間を読む」という言い方は、もともと無かったのでは……? 通じますが。

かわりに、表層的な文面にばかり気を取られていないで、裏まで読む!
という「眼光紙背に徹す」なる表現が古くからありますよね。
(ちなみに私は、この眼光紙背という語が大好きでな。)

この「眼光紙背に徹す」を英文に訳せよといわれたら、
read between the linesを使うのが妥当かと思うし、
逆もまたしかり。
なのだが、厳密にいうと「行間を読む≒裏を読む」であって。
似てるけど違いますよね。
ただ文化的な習慣も考慮すると、この双方が匹敵する。

……長くなったので~続きます~

尚、参考までに


2016年夏アニメの復習(備忘録的な) [最近のお気に入り]

当初は週6本くらい録画予約をしていたのだが、
最初から最後まで毎度、楽しみにして見終えたのは、
(以下順不同)
・モブサイコ100 
・ベルセルク(1期)
・テイルズ オブ ゼスティリア ザ クロス(1期)

上記3本、すべて私としてはダークホース的な作品で、
とりあえず録画しとこう、キャストが豪華だし、
とか、
今さら漫画本を一から読むのは気合が要るからアニメで慣らして、
とか、
絵がきれいだから……
みたいなわりと軽率な理由で、
暇だったら見よっかな、くらいな心構えで見始めたのだった。良い意味で想定外の結果に。

反対に、かなり期待していたアニメが、
なんか合わない、時間が惜しい……。
と、視聴継続を断念する作品もあったりで、前情報から受ける印象なんてわからない。

面白かった3本は、蓋を開けてみたら、
超絶ゴアなダークファンタジーだったり、
剣とドラゴンと白魔術……スーパー王道ファンタジーだったり、
日常異能者学園ものかと思いきや……正統派SFサイコものであったりと、
よくも悪くも、自分の嗜好を目の当たりにする結果に。

自分の好きな分野の作品が、良い質と出来に恵まれることが、そうそうあるとも限らない。
ラッキーでした。

それからベルセルクのセルピコの声が、
聞き覚えがあるけど、思い出せない……
と、キャスティングを確かめて初めて、
(あ……うちの初期刀だ*……)
と、気づいたときの驚きよ。

*


アンケートの結果発表!(当ブログ読者の世代) [ニュース]

一ヶ月前のブログの記事でアンケートをお願いしました、
結果を発表いたします!

10代 : 3%
20代前半 : 20%
20代後半 : 14%
30代前半 : 17%
30代後半 : 9%
40代前半 : 16%
40代後半 : 6%
50代前半 : 6%
50代後半 : 3%
60代前半 : 3%
60代後半 : 3%

年代別に割合を示すとこのような結果が出ました。
(ここにない年回りは投票が無かった。)

で、結果を割合順に上から表すと、

1) 20代前半
2) 30代前半
3) 40代前半
4) 20代後半
5) 30代後半
6) 40代後半/50代前半
7) 10代/60代前半/60代後半

……となりました!

思っていたよりも積極的に参加していただけた気がする。
みんなスーパースルーするかなあと危惧していたので、嬉しかったです。
漠然と想像していたとおりの部分もあれば、
数字できちんとデータ化されて出てくると、意外に思える部分もある。
とても参考になりました。
ありがとうございました。

そういえば、この一ヶ月間にブログのアクセス数が、
従来の3分の一くらいまで減ったのは、
更新しないことによって、巡回ボット系のアクセスが減ったにすぎないのか。
それとも実際にブログ読者が、更新がないせいで来なくなったのか、
そこんとこ、現状がちょっと摑めない。


このブログ始めて8年目にしてなんなんですが [ニュース]


http://bcrosssanatorium.enq1.shinobi.jp/vote_form/125184/
よろしければ、大まかで良いので年齢を教えてください。
ほんの通りすがりの人でも問題ありません。
自称○○歳とかでも御本人の心が痛まない範囲ならば当方とくに気にしません。

ただ正しいデータを取れたほうが、
ブログ上で「こんなの共通言語だよね」
「いやここは注釈をつけたほうが親切かな」
みたいな部分で、話をしやすくなるというだけの話だ。

基本的に一つのアンケートにつき、一回以上の投票はできない仕組みなってるかと思います。
アンケート掲示期間は、とりあえず9/9~10/9の一箇月としてみます。
一箇月後に結果を発表する予定です。
アンケート集計中は結果が見られません。
よろしく。


Measles, Mumps, Rubella [ま行]

アメリカの大学に留学した時、
わたしはひとまず語学留学し、
その後、四年制の本科に入ったのですが、
大学の本科の新入生健康診断において、がっつり予防注射を打たれました。

語学留学においても、日本の保健所で健康診断を英語で書いてもらって、
留学先に提出するのが渡航前の必須項目だったですが、
そのときの印象は「アメリカの学校は結核に神経質だ」でした。
肺のレントゲンも添付したし(←うろおぼえ)
BBCとかツベルクリン反応とか、その辺の過去の接種歴等を、そっくり洗われた。

たぶんエイズやHIVなどがさほど珍しくなく、
結果的に、結核などの感染症が珍しくもないのだろうと、勝手にわたしは推測した。
昨今は日本でも結核流行の再燃がさほど珍しくないが、
当時は、まったくそんなことはなかったので、「うわぁアメリカ……」と強烈に思いました。

ちなみに、結核の痕跡があると受け入れてもらえないケースが多い。
学校が受け入れないのではなく、おそらくは国の基準で受け入れないのでは。
完治という証明ができなければいけないはず。
留学生の友人は、子供のときに結核に罹って肺に微弱な影が残っていたために、
入学のタイミングがずれて、おかげで留学が数年遅れたと、その面倒くささを語ってました。

むろん結核関連だけでなく、
シュワルツ株(麻疹ワクチン)を何歳児に受けたとか
母子手帳とかまで引っ張り出してきて、診断書を書いてもらって、ただでさえ、けっこう面倒なのだ。

で、数か月の語学留学のときはスルーだった予防接種が、
本科では診断書をパッと確認された瞬間に「はい、あなたはこっち」
わたしは大学のヘルスセンターで、
「注射を受けてください」と。

"Really?"

わたしが地味に悲鳴を上げたとき、後列のアメリカンの学生数人が、
うわ、こいつかわいそう、気の毒といった同情を込めた感じに、くすっと笑ったのを覚えてます。
まあ確かに、気弱な感じに控えめ伏し目がちでいた留学生(わたし)が、
目を見開いて突如はっきり
「まじですか!?」
といったのでウケたんだろう。

問答無用で受けさせられた予防接種がMeasles, Mumps, Rubellaの三種混合。
Measles(麻疹:はしか)
Mumps(三日ばしか おたふく)
Rubella(風疹)
いわゆるMMRだったかと。

私は幼少期にシュワルツ株の麻疹ワクチンを複数回打っていた記録があったし、
風疹も中学の時に接種を受けたし……みたいな感じで、
どれも日本では免疫があると認められている状態だったので(当時、二十歳くらい)

なんで注射打つんだー、日本人を未開地の病気無知とか思ってんの、え?

甚だ不本意だった。
今ほどひどくなかったけれども、当時からアレルギー体質ではあったので、
いきなり海外でわけわからん予防接種を受けさせられて、
拒絶反応でも出たらどうしてくれると、うろたえた。
(中学生のとき風疹の予防接種を受けた折も、
体調に不安があって学校では受けられずに、
近くの医療機関に保護者と出向いて受けたくらいだったので。)

アメリカの大学の保健室で、「はい寝て」と、カウチに寝かされ、
さっさと腕を消毒され、キュッと注射液をおしこまれて、
何事もなくおしまい。
ありがたいことに体調も悪くならなかった。
ちなみに無料。
(というか留学生はたしか健康保険料みたいなのをアメリカ人より多めに支払う設定で、
すでに込みこみと言いますか。)
男女問わず上記のMMR(風疹こみ)の接種を受ける。

大学院に進んだ時も、学校を替えたので同様の健康診断があり、
また注射を受けさせられたらたまんない、
と、大学から健康診断の紙をコピーしてもらっておいて、提出した。
「これは助かる。コピーで問題ない。パーフェクト!」
と重宝され、注射を重複して打たれることもなく、

むやみやたらと日本人に注射打つわけじゃないんだアメリカ……

と知ったのでした。

日本に帰国して社会人になってからチラホラと、
このごろになっては、やたらと、
抗体の有効期限がうんぬん、
風疹だの、麻疹だのの流行について耳にします。
で、留学当時アメリカで問答無用とばかり予防接種を受けさせられた理由を痛感する。

日本は島国だし、
実際、いろんな伝染病や病害虫を水際で堰き止めている。

いろんな人種が揃っている多民族国家で、
各大陸を行き来しまくっている(=同時に病気も行き来するのが日常)
そういう生活が何世紀もにわたって根付いている土壌とちがう。

だから「自分がきちんとしていれば大丈夫だ」
という観念が根強いけれど、
伝染病は自分がきちんとした生活を送っていても伝染します。
だからこそ伝染病なのだ。

そうなると病気に感染した人を元凶として責めまくる村社会的な傾向が強いが、
無論、必要に応じて隔離対策は絶対重要ですが、
そんなことより予防接種をもっと周知して、
大人になっても、ある程度、半強制的に受けさせるようにしたほうが、安心だし現実的。
やがてオリンピックもするんだから、必要なんでは?

あ、それから――


『視線』 [さ行]

先月、鈴木康士氏の画集が出ましたね!
鈴木康士氏は、私の著作『カンパニュラの銀翼』の単行本の表紙、文庫本の表紙、
両方ともを描いてくださった装画家です。


鈴木康士画集 視線

私は楽天ブックスで先月注文ゲットし、
わりと気軽に、ひゃっほう楽しみ~とページを開いたら、
『カンパニュラの銀翼』の装画が、
どーん!
と出てきて、うわぁァッ……!
嬉しい喜びに体温が上がりました。
エアコンの設定温度を一度下げねばならぬほど。

最初はちょっと上ずって、若干、目線がすべり気味に、どんどんページを繰って次を見たくなるのを、
かろうじてこらえているうちに、今度はなんかゾクゾクきて、
エアコンの設定温度を一度戻さねばならぬほどに。

好きな装画家さんの画集を買って、
ページを開いたときに、自分の作品の表紙絵が出てくるインパクトって、
なんかすごくて言葉にならなく。
まじで語彙力ログアウト。

画集のタイトルが「視線」であるように、
描かれる人物の視線がいちいちゾクっと妖艶で。
冷たい透明感にみなぎっていて、そこはかとなく突き放すような空気感と、
惹きつける吸引力との距離感が、素晴らしいのだ。

神永学氏との対談も掲載されており、
そこで鈴木氏が、神永学氏の小説の登場人物「八雲」について、
「瞳が赤いっていう特徴しか、外見についてほとんど書かれてない。
小説であればインパクトがある特徴だと思うが、イラストだと瞳はものすごく小さいので、
どうやって特徴を引き立たせるか、苦労した」
といったようなことを語っておられます。

インパクトを出すために、大きめに誇張するといった稚拙な表現にしない、
バランスを崩さず、特徴を出すために、創意工夫があるんだな、やっぱり~。

『カンパニュラの銀翼』の装画を引き受けていただいたときに、
担当編集者を通じて、お伝えしたか、
それとも鈴木康士氏に直接メールか何かでお伝えしたか、
あるいは伝えようと思ってやめたのか、よく覚えていないのだが、
――鈴木さんの描く人物は、男性は男らしくかっこよく、
あるいは女性は女らしくフェミニンな色香たっぷりなのにもかかわらず、
女性も男性もちょっと中性的な空気感を漂わせていて。
通常、男性のイラストレーターが女性を描くと、
わりと、どうしても性的アイコン的なパーツが大きく誇張されやすい。
線もしつこくなりがちで、
女性から見ると、違和感が募ったり、時には嫌悪感すら抱かされたりするときもあるのに。
そういう、いやらしい部分が全く感じられない、透き通った魅力があります。

……にもかかわらず、女性も男性もリアルに具現化されていてなお美しく、
骨に芯が通っていないとか、血が通っていないような感じはなく、
したたるような影があって、そのバランスがたまらなく素晴らしいんだ――。

だからこそ『カンパニュラの銀翼』のシグモンドが描かれるにあたって完璧だったのだ。

人物像のシルエットのバランスとか、そういったことは、だから当時もかねてより、
良いなぁ~と私は認識していたのだが、
今回、画集を見て、あらためて感じたのは、
デザイン的なセンスが――背景とか小道具とかそういったもろもろ、ひっくるめて――
一つ一つ緻密で凝っていて、手を抜いてなくて。
絶妙に配置されているんですよね。
カンパニュラ~の単行本でいうなら、小鳥とか、懐中時計とか……etc,
小鳥を手にしたシグの片手が、手袋をはめてるの、さりげなくほんと心憎いんですよ。
これは私の小説の――この物語の表紙なんだ、と実感できるんです。作者も読者も。

どうやって描いてるんだろう……と思っていたら、
付録の特典データCDが、かなり雄弁にそのあたりも見せてくれるのであった。

ものによっては幾層にもレイヤーをわけて、人物や背景や小道具などを描き分けて、
そのレイヤーを統合するまでに、さまざまにバランスを見ながら、
「どんぴしゃ」な一枚絵を仕上げるのだなあ……。

その過程がデータCDで見られるのが、かなり勉強になるし、
見ごたえあります。

『カンパニュラの銀翼』に関していえば、
文庫版の制作過程がデータCDに収録されています。
カンパニュラ~の文庫版は、封蝋をモチーフにした窓枠の内側に、
シグモンドやエリオットやクリスティン、
またベネディクトを想起させる黒い木立……塔のような影が、描かれます。

窓枠に切り取られた空間に、
主要登場人物を3人も配し、でもなお、せま苦しくなく、世界観の奥行きを感じさせるには、
そうか、こうやって描いたのか……!

シグモンドの全体像を、
風でひるがえるコートの空気感みたいなものまで、いったん描いているんですね。
最終的には窓枠や、窓枠の外の黒いベタで塗りつぶしてしまうとわかってる部分すらも。

だからこそ窓の向こう側に見える人物であっても、
四コマ漫画の絵みたいになってしまわず、
動きの一瞬をとらえたような空気と奥行きの深さが伝わってくるんだ。

『カンパニュラの銀翼』のスピンオフ「風切り羽の安息」
この短編がミステリマガジンに掲載されたときも、
ぎりぎりのスケジュールの中、扉絵を描いていただいたのですが、当初は雑誌のモノクロ絵。
これがほんのり彩色を施されて画集に載っていたりもします。

描き下ろし絵や、個展に展示された絵なども数々あり、
海外のグラフィックノベルっぽいテイストなのも。
あとまた、各イラストに添えられている、
粟粒のごとき小さい活字のコメントが、面白い。


特急列車 [た行]

昨日の日曜、大人になってから初めて特急に乗車。

子供の時は特急電車は珍しくなかったのに、
新幹線の台頭にともない、利用エリアの特急の本数自体が激減。
自分で切符を買って電車に乗る年齢になってから、特急利用の機会がなくなった。
(最後に特急に乗ったのって、たぶん私が九歳の時で、身内の納骨の折だった。)

一日一本、出るか出ないか。
猫バスほどはレアじゃないけど……という特急電車を調べておいて、みどりの窓口にて発券。
いざ乗るにあたって、まず改札地点で挙動不審に。

新幹線ホームで乗りこむんだっけ?

やや、特急が発車する7番線って、掲示板に出てないぞ……。
あと3分後には発車なんだが……。

よく普通電車の駅のホームで、
「特急電車を先に通します」というアナウンスとともに特急車両が通過していく姿を、
あああーーーなんか腹立たしい気がする……と、じりじり見送ることは多いのだから、
当然、普通のプラットフォームから出るのが常識だったのに。
理解するのに、しばし戸惑う。

なんだかんだで無事に乗りこみ、発車して、車掌さんが乗車券チェックに巡回するのを、
――だよね! 普通のエリアから発車するから、Suicaだけで入れちゃうしね。
飛び乗ってから車内で特急券を購入する乗客もいるだろうしね、外せないルーティン! 大変だ!
内心いちいち感心しては、小さい驚きをもって迎えるのであった。

車内販売が行き来するのを横目に見ながら、
連れに「これは飛行機の飲料・軽食サービスとはちがって、有料なかんじ?」
と確認して、いささか引かれる。
だって聞くは一時の恥だもの。
相手に恥かかすような質問をやたらと訊きはしませんがね。
新幹線が有料なのは知ってたが、確認だよ確認。
特急の特別感に、脳内やや混乱が続くのだった。

で、子供の時も感じたが、特急は普通の線路をスピードを上げて走るせいか、けっこう揺れが独特。
快速や新幹線よりも、乗り物酔いをしそうな不安感がよぎる1時間であった。


歌仙兼定登場@永青文庫 [か行]

実物の歌仙兼定を見にいってきました。

7/9日から始まった歌仙兼定の展示、
混むかもしれないと、7/14日、すいてる昼時を狙って友人と行きました。
おかげで暑かった! 

あまりに暑く、ぶっ倒れるのも馬鹿らしいと満場一致(二人ですが)で早稲田駅からタクシーを拾う。
複数人で行く場合、この手段はこの時期、かなり有効かと思います。
普段インドア派すぎるというのもあるのだが……
あそこまで暑いと思考回路が正常に機能しないので、炎天下で迷うのも、無理だ!
東西線早稲田駅から1000円区間でした。

永青文庫界隈は、早稲田大学や日本女子大やらのキャンパスが連立。
永青文庫近辺になると、にわかに鬱蒼と深緑に囲まれて、別世界。

永青文庫は、もともと細川邸のうち事務所だった建物を再利用しているようで、
使用人達の詰め所とか、屯所とかそういう感じだったのか?
当時の洋館の面影を色濃く残していて、ややさびれた感も、味わい深いです。
階段の手すりの位置が異常に低いのに驚く。

館内は美術品があるので、猛烈涼しい。
公式ページにもあるように、上着持参が賢明です。
永青文庫は美術館といっても小ぢんまりしているので、
ひょっとしたらコインロッカーないかな……と危惧していたのだけれども、
ばっちり完備されていて、かなり助かった。

歌仙兼定は展示期間が長いので、私が行ったときは、さほど混んでいませんでした。
ありがたい。じっくり堪能できます。

四階から展示となっており、四階から二階までが展示場。
下に降りてくるという順路で、歌仙兼定は四階の奥・中央に。
薄暗い、もと洋館の古めかしい空間に、ライトが当たっている展示品が並んでいて、
天井が高くゆったりしていて居心地がとても良かった。

歌仙兼定は印象として、打刀としては小振りでした。
《片手で振れるように寸法がやや短くなっている》と説明書きに。
――細川家の目録には脇差の項に書きこまれてありました。
「大振りの脇差」として通用するサイズ感です。

まっすぐ一本気な歌仙っぽく、刀身はやや図太めでまっすぐ。
先端にかけて若干の反りが入っています。
(切ッ先は猪首だったか。うろおぼえ。)

細川忠興が、部下の不調法を罰するためやら、悋気に任せて、三十六人斬ったから、
三十六歌仙になぞらえて、歌仙兼定なわけですが、
細川家側の記録にその旨は明示されて残ってはないとか……
(細川家の性分として代々語って誇れることでもないだろう)

ごくわずかに微細な刃コボレも見られて、使いこんだ感がひしひしと伝わる刀身でした。
そのせいか若干、刃先はよく研ぎこんだ庖丁の風合いに見えないこともなかった。
まさに人斬り庖丁感です。

刀身にひきかえ鮫皮(……エイかも)を漆で燻した鞘が、白と黒のある種天然の水玉模様*で、
スタイリッシュかつポップでおしゃれでした。
この歌仙拵えの鞘、のちに「肥後拵え」と呼ばれたものが、ほかにも何点も展示してあって、
軽そうで、使い勝手も良さそうだった。
鮫というと、文字通り鮫肌でブツブツざらざらが残っている仕立てが一般に多いと思うのだが、
つるっと平ら(エイだから? 燻して漆でコーティングしてるから?*)
エナメルっぽい質感に映る。
ごてごてした飾りがないこともあり、洗練されてます。

今回は展示のお題目が「歌仙兼定登場」なだけあって、歌仙兼定に関連する展示となっており、
細川家というと茶道具の目利きというイメージがあった分、
茶道具のたぐいの展示がなかったのが、私としては少々、残念だった。

とはいえ大半は刀ですが、石棺なみな長持の数々や、
当時の自筆のカルタ(百人一首が書いてあった)とか、
和太鼓——これが、きらびやかではないのだが、色合いがシックで上品な風格が極まっている。
また梨地に秋の花々、川が流れている、蒔絵のほどこされた、今でいうピクニックセット(徳利とか重箱とかが小さい箪笥状にしつらえらえれている)のとか、
ほんともう、風流かつ雅の極み。
華美過ぎず、かといいワビサビの過ぎた野暮ったさがない。
今回、目にしたのは細川家伝来の逸品のうちのごく一部なのだろうけど、
終始一貫して細川家の毛色って、ほんと良いセンスしてらして……と感じる、
私好みでした。

そんな中で、一振り、今まで私が目にしてきた太刀の中で一等好きだ、
運命的な出会いに匹敵するくらい一目ぼれだ……
という大振りのとてつもなく美しい太刀がありまして、
歌仙兼定につられて行ったのに、わりと記憶に焼き付いているのは、その一振りの太刀であった。
国宝・豊後国行平・作

http://www.eiseibunko.com/collection/bugu3.html
これですね。

写真で見ると、いまひとつよく存在感が伝わってこないのだが、生の刀身は素晴らしくきれい。
死神みたいな変な模様が柄ちかくに彫りこまれてるのが謎でしたが。
これの役行者っぽい人物は、永青文庫のコレクションHPによれば、
実際は裏なんですね……。
表に配置されていましたよ。
たぶん銘を見せるためなのだろう(この作者は裏に銘を入れる人らしい。)
展示は裏側に倶利伽羅龍が入った状態で置かれていた。実際は倶利伽羅龍が表なのだな……。

永青文庫は、刀の表裏とか、置き方に関しては、はっきりいって、しっちゃかめっちゃか。
柄(茎側)が左だったり右だったり……自由すぎる。
見せたい面を表にするためといえど、どちらかに揃えてくれねば……せめて注意書きを添えてくれ。
どんな刀だろうと、刃が上向きに置かれていた気がする。
ちょっと、どうなのと思うのだった。
(それとも細川家独自のこだわり展示法だったりするんだろうか……)

豊後国行平作の太刀は、
刀身がプラチナめいた白っぽい輝きを放って、ややほっそりとしつつも大振りで、
弓なりの反り具合の優美さといい、
切っ先が、異空間を切り裂いて時空に溶けいるくらい滑らかに研ぎこまれており、
息を呑む美刀。
……ほしい。
いや見られただけでもうれしい。

歌仙兼定と関係がないものとしては、踊り場にあった書棚とか、
近世になって細川家の人がフランスに8年留学していたときの数学のノートが興味深かった。
目をみはる麗筆なペン字で、フランス語で数式などをノートにとってあり、
フランスに8年もいれば書けるか……? とも考えたが、
自分を鑑みるに、
私は足掛けで9年くらい(実質いたのは正味6年ですが)アメリカに居たけど、
英語でこれほどきれいにきちんとノートテイキングできたかと言えば、
比べ物にもならない。足元にも及ばない。
もっといえば、日本語でもあそこまで完璧なノートを取れたことはない。

おそらくは、当時も西洋の授業法として、
板書きをひたすら書き写せばよいというスタイルではなかった筈だろう。
仮に後でまとめなおして書き直したのだとしてもだ、
ただ由緒と財力ばかりの「ええとこのぼんぼん」とは格が違うインテリぶりを、
さりげなくもまざまざと見せつけるノートでした。

永青文庫の季刊誌95を買って帰りました。
季刊誌95は写真の色味も綺麗。

今回の展示《歌仙兼定登場》の図録も売っており、
図録と一緒に季刊誌を購入している方々が多かった気がします。

図録もオールカラーで、展示品すべてが載っていたかと思いますが、
私からすると説明文の入れ方が斜めになっているレイアウトが違和感があったのと、
写真が小さく、かつまた実物と比べて写真の色がかなり見劣りするので、控えました。

以前ゲットした石切丸や小狐丸が載っていた石切劔箭神社の図録は、
図録の写真自体がすごくきれいで、文面も鑑賞に値する出来栄えだったので、
そういうのをイメージしていたが、あくまで思い出アイテムにとどまる感じ。
思い出アイテムとしてなら図録も買って損はないのかも。

永青文庫を出たあと、徒歩五分弱の新江戸川公園にある松聲閣(しょうせいかく)へ。
永青文庫から新江戸川公園はつながっていて、木々の中を歩くので、
階段も多く足場は悪いけれど、暑くはなかった。
松聲閣はもともと細川家の学問所だったそうです。
今は一般利用できるようになっていて、文京区の人ほんとラッキーだな!
いろいろ補修されて畳はまだ青々として、新しい畳の匂いがしていました。
すごく急勾配な階段とか、狭い廊下や縁側などは、昔の日本邸宅の趣が随所に。

お目当ては歌仙兼定のイラストレーター・ホームラン拳氏の描きおろしイラストの展示。
等身大の歌仙兼定のパネルと並んで、イーゼルに展示されていました。
描きおろしイラストは、歌仙さんが持つ歌仙兼定の鞘と刀身の再現率が半端なかった。
さすが公式・永青文庫とのコラボ! まごうことなき歌仙さんと歌仙兼定だ。

等身大パネルは予想より大きかった。衣装がかさばる系ですしね。
歌仙さん、等身大パネルだと顔が小さく、背がすらっとしたのが際立って、美丈夫でした。

*追記


たなばた(七夕) [た行]

七夕なので、
ちょっと『みがかヌかがみ』の話をします。

天女目(なばため)姫
作中「夢浄土」の段に登場する主要人物の一人である、
この天女目という名は、稀少苗字として実在します。

青天目(なばため)氏、
「青女房」の段に登場する主要人物の一人である、
この青天目という名も、稀少苗字として実在します。

昔からある稀少苗字ですよね。
作中で天女目姫と青天目家は関連がある苗字として語られます。

で、皆さんおそらくお気づきの通り、
七夕(たなばた)という単語が、
なばため、
という語と語感的に、かなり類似であるように、
このお話、七夕にまつわる風習がかなり密接に関わってきます。
裏テーマ、裏設定みたいな扱いで、七夕の風習・由来に絡む事象がちらちら垣間見え、
干渉してくる。

表題の『みがかヌかがみ』は、本来の鏡の意味であると同時に、
「夢浄土」の段における不来方と、
「青女房」の段における大正時代、
この二つの世界を隔て、かつまた結び――中核をなしている、とある井戸の隠喩でもある。
この因縁の井戸が絡んで引き起こされる物語世界の経糸(たていと)と横糸を成す題材の一つに、
七夕(たなばた)が有るんです。
(七夕だけじゃないけど)

なので!

今くらいの季節が最もタイムリーな季節柄かなあと思われる。
積読してたり、気になるけどどうしようか……と逡巡しているかたは、
ぜひとも七夕をきっかけに、積極的にお手に取ってみていただけると、
しっくりくるかも、だ!

尚、この『みがかヌかがみ』
牧 眞司氏著の『JUST IN SF(本の雑誌社)』という書評本で、取り上げられております。

牧眞司(敬称略)の個人的見解による、
○冒険○幻想○青春○内宇宙
などのアイコンが『みがかヌかがみ』に当てはまり、中でも
○時間・次元
というアイコンがついているのが、私的にグッときた。

今までも私の著作に関して、
新聞や雑誌を含め、ちら……ほら、と書評をつづってくださる奇特なプロの批評家がいらしたが、
いずれもとても有りがたいの一言に尽きるものの、
……きっと、作者でもなければ本当に些細な部分なのかもしれない、
ちょっとした読み間違い等が散見されるのが常だった。
大筋はあってるのだが。

『カンパニュラの銀翼』のシグモンド・ヴェルティゴのことを「英国貴族」と書かれていたりとか、
(実際はシグモンドは欧州貴族で、英国人であったことはない)
『黒十字サナトリウム』の龍司を「ロシア人との混血」と書かれていたりとか、
(実際は龍司はドイツ人の血が入っていて、ロシア人の血が入っているのは湊だ)
いずれも異なる書評家のかたなのだが、そういった微妙な読み違いなのか書き間違いなのか、
たぶん時間的な制約とかもあって、急いで仕上げているんだろう……
というケアレスミス?も少なくなかった。

批評というのは当然のことながらその性質上、
作者当人の目には一切触れずに書かれ、発表となる。
発表となっても、まず知らされることはない。
なので、たまたま何かの折に私の目に触れて、はじめて、
「お、おや!? これ、違ってるんだけど……」となった時には、間違った情報がすでに出回った後。

ですんで、こんな素敵な書評を書いてもらえた、
そう胸を張って、もろ手を挙げて喜べる書評に残念ながら、あまり出会ったことがなかった。
ま、私の話は情報量が多いんで仕方がないか……。

ところが!
今回の牧氏の批評に関しては、
「すべてにおいて的を射ている!」
読み違いのたぐいは一切なく、
これほど的確な書評に出くわし、私がびっくりしたくらい。
一読しただけでは読み手にスルーされるかもしれないなと思っていたような深い部分まで、
内容を隅々まで、きちんと汲み取ってもらえていて、
素直にとても嬉しかった!
ちゃんと通じている読者がいる。

『みがかヌかがみ』は何しろ発行部数が少ないので、
取り扱い書店もまれでしょうし、
刊行から半年ほどたって、
在庫僅少となっている本屋さんも多いとは思いますが……。

七夕の短冊にうっかり「何か」を願うとよろしくないということも書いてあります。
もちろん小説なんで、どこまでが民俗・風習における史実として妥当で、
どこからが物語の範疇なのかは、
読者の読解力にゆだねられています。

余談


即行マイリス [最近のお気に入り]

刀装発動の演出がかっこよく、ニトロみを感じる。
自軍側のメンツが、わが本丸の一推しカンスト組とかなり重なる(三日月がくる前はこんな感じ)、
対する演練相手のメンツがこれまたわが本丸推しカンスト組とかなり重なる、
まったく相手に不足なし、微妙な力バランスの駆け引きがもうほんとたまらん胸熱展開。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm29159939

「こいつら大阪城掘ってるんじゃないかな?」というコメントに激しく同意。
全員の「らしい」表情もさることながら、
戦闘中の三日月の軽やかでゆるぎない足の踏みこみかたとか目をみはる。

演練相手を見た瞬間におのおのが、あー手ごわいのに当たったぽくね?
という顔になって、相手側に「やぁ」って手を振ったりしてるところなど、
戦闘以外もエンディングまですみずみ至るところ心憎いです。


ついに出ます ~E・A・ポー~ 翻訳本 [ニュース]

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『E・A・ポー』 集英社ポケットマスターピース09(集英社文庫)
・ 2016年6月23日刊行
・ ISBN:978-4087610420

エドガー・アラン・ポー作品の集大成となる翻訳本。
集英社のポケットマスターピース09『E・A・ポー』
全部で次のような新旧訳者による豪華ラインナップで、このたび刊行となります。

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わたし中里友香も、ポーの代表作である詩『大鴉』と、短編『告げ口心臓』を翻訳しています。
「ポー訳者の末席に座すものです。微力ながら、末永く読まれるよう全力を尽くしました」
粟田口・前田藤四郎くん(刀剣乱舞)の台詞っぽく言える感じ。

解説やエドガー・アラン・ポーの年譜なども含め、総ページ832頁にものぼる密度の濃い文庫本。
見本が手元に届いた。
ぶ厚いよ!

わたしが『大鴉』と『告げ口心臓』を翻訳した際に受けた印象や、
一言一句を訳しあげたうえで当該作品をどう解釈するか。
私なりの見解や深読みをしたためた短いエッセー
やみのいろ
(講談社『メフィスト2015 VOL.2』「日常の謎」というコーナーに掲載)
こちら現在、講談社のウェブ上で無料公開となっていて読めます。
http://kodansha-novels.jp/mephisto/daily/55/

このエッセーが掲載された2015年8月当時は、
ポー翻訳本の刊行予定が2016年10月に先送りになった時でした。
2012年時点でお話をいただいて、翻訳作業を終えていた私は、
再三にわたって刊行予定が先送りになるたび、
こういう古典の翻訳って、ずいぶん気が長いプロジェクトなんだな~と
「長生きしないとやってられませんね!?」と目を白黒させたもんです。今となっては良い思い出だ。
のちに2016年6月と少し刊行予定が前倒しになって、今回、その通りに刊行と相成りました。

初校まではずいぶん前に終えていましたが、
再校と念校を終えたのはついこないだで、
その時にもけっこう手を入れたので、
冷却期間を置いて翻訳文を推敲しなおせたのは良かった。
期間分だけ翻訳の精度と練度がなお高まった。

ちなみにエッセー「やみのいろ」には『大鴉』『告げ口心臓』のネタバレがあります。
古典とはいえ一応、要注意。

ポーの翻訳本を、このエッセーと併せてお読みいただくと、
あるいはいっそう解釈の幅が広がったり深まったりして楽しめるかもしれません。

(ポーに関して思うところを一度で書ききると若干長くなるので、後日また補足アップする予定。)

→ポーの『大鴉』に関する考察的な①


絵空事とは異なる次元 [あ行]

先日の金曜日に地上波で映画『ゼロ・グラビティ』(Gravity)をやっていたようで、
私はこの映画、相当、好きです。

近年、我ながら珍しく、ど真ん中ストライク、映画館で打ちのめされて帰ってきた作品で、
後半なんて映画館のシートにぐったり寄りかかって泣きまくっていたもんです(感動以前に、人間としての根源的な恐怖感に打ちひしがれたせいで。さすがにこんな極限状態は無理だよマジでもう太刀打ちできない怖すぎる……と)。
たいていの人が似たような体験をしたかと思います。

DVD化されたとき、すぐさま、そこそこ年配の身内に「見て! 良いから見て!」
と持っていって半強制的におすすめして帰ったのだが、
「見ました」というメールが、あまりにも的外れな感想しか返ってこなかったのだった。

だからつい、
「最近どんな映画を見ても、ぼんやりした感想しかわかないみたいだけど、あんまりにも何を見ても何も面白くない……というのがたびかさなって度を超すなら、体調が悪いか、認知症のはしりか、鬱病かもしれません」
と本気で心配してメールしちゃったくらいである。

それくらい、この映画は年齢や性差を問わず、人間の根源的な恐怖とか帰巣本能とかに訴える、
いい意味でハリウッドだからこそできる普遍性の高い作品だと信じて疑わなかったのだ。

しかし先方の感想は、
「あなたほど宇宙に夢中じゃないし、正直、宇宙のことが良くわからないので、へーえ無重力空間って、こんな感じなのですかね? まさかまさかこんな次から次へとよくもまあ、悪いアクシデントばっかり考えつくものですよね、ある意味でこれも一種の御都合主義的展開」
というのが素直なリアクションだった。

上記のようなリアクションはかなり稀なんじゃないかと、今でも私は思っているが、その人によれば、
「ジョージ・クルーニーが呆気なく退場で、生きて帰ってきたと思ったら、なんかアレだし」
みたいな。

やや、そこは確かにストーリー上、要となる部分でもあるけれども、
そこが映画の感想を左右しないというか、
むしろ、ああいう立ち位置が、実に心憎いキャンスティングなんじゃないか……。

私より年齢が上の世代は、よほどの「宇宙大好き」洗礼を受けていないかぎり、
宇宙に対する憧れも恐怖もさして抱いていないというか、
宇宙について常識的に、知識や想像力が欠如しているのかもしれない……。
私の世代では中学の時「将来、宇宙飛行士になりたい」という理系の女友達とかがいた。

ゼロ・グラビティは、
SFにおけるフィクション部分と、現実に起こりうる境目ギリギリのリアルさが際立っており、
だからこそ手に汗握り、
理系じゃないけど宇宙は普通に好きな私からすると、ノックアウト感が募るのだが。

何がSFで、何がリアルか、その差すらもきちんと区別できない人には、
異空間における単なるパニック映画にしか映らなく、
孤立無援おつかれさん映画としか受け入れられない。

「そもそも宇宙飛行士なんて、大統領よりも、オリンピック選手よりも少ない、
選ばれたごく少数の人しかなれない雲の上の人間だし。——文字どおり雲の上の」
という感覚しか持ち合わせていない人にアピールするのは困難な作品で、ハートウォーミングなお約束が皆無。
その媚のない部分が、余計に魅力的なのかもしれない。

国立情報学研究所というところで私は非常勤で勤務していた時期があるのですが、
そこでは『国際宇宙ステーション搭乗 宇宙飛行士候補者募集』
というリーフレットが誰でも自由に入手できる場所に普通に置いてありました。

こないだ念願の本棚を買って、ようやく搬入と転倒防止器具の設置が済み、
私は今かなり大々的に、本やら、ためこんだ様々なプリントアウトなどを整理している真っ最中。
作業効率を上げるために、やらねばならない雑務だったのを後回しにしすぎていたので仕方ないが、
仕事場が現況てんやわんやで、わりと原稿が手につかなくて困っている。
その作業中に、当時(2008年)の宇宙飛行士候補者募集のリーフレットを見つけた。
スキャンしてみました。こちら2枚ではなくて表面と裏面です。

宇宙飛行士募集2008JAXA.jpg
(クリック推奨。原寸大で見られます。)

宇宙飛行士2008JAXA.jpg
(クリック推奨。原寸大で見られます。)

2008年当時の募集以来、JAXAは2016年現在までに募集をかけていない(たぶん)。
年がら年中、募集していて応募できる職業ではない。
いっぽうで、年齢制限も性別制限もなかったりする。

こういう謎資料をクリアファイルに無造作につっこんで棚に積んでおく癖があるので、
仕事場がどんどん紙に侵食されてきて格闘中なのですが、
これをちょっと読むだけで夢が広がったり、逆に、夢が潰えたりする部分がある……というのは貴重。

この応募条件を見ながら、
(自分には宇宙飛行士に応募するのに、何と何と何の条件を満たせていないか)
(仮に、これと、これと、これをクリアしたとして、さらに数ある資格者の中から万一にも試験の結果、採用されたとしても、訓練業務の一環としてロシア語も習得か。まあ宇宙だものな、英語とロシア語が共通語か)
等々、ほんの一端でも具体的に想像できる余地があるというのは捨てがたい。

宇宙飛行士といえば=「雲の上の人」
ではなく、
どういう資質が重宝され、自分よりも何が秀でて適格であるとされ、必要最低条件としてどんな訓練をこなすのか。
積極的に情報を集めなくとも漠然としてではなく身近で自然に触れえる情報の質が、
物語をどれだけ満喫できるか否かを左右する部分は否めないのかも……。
と思ったりしながら、この手の資料を処分すべきタイミングを逸するのである。



共通テーマ:映画

遠征失敗…… [あ行]

二週ほど前、若冲展待機列を目にしてあっけなく尻尾を巻いて帰ったわけですが、
ブログを書いてしばらくしてから、
「あ……なんでその足で、国立西洋美術館のカラヴァッジョ展を見に行かなかったのかな私は? 失敗したね!」
と気づいたのだった。

昨日の月曜日、上野方面に出かける予定があった。
そこで用事が済んだあと、まず、あんみつ屋の「みはし」に寄って腹ごしらえ。
みはしに行くのは初めてです。
上野界隈では有名なあんみつ屋さんですが、最近知った。
「みはし」って何だろうこのなじみ深い響き……
あ、『黒猫ギムナジウム』にて猫目坊が幼少期を過ごしたのが「三箸屋(みはしや)」だ。
三箸屋のほうは甘味処とはいいがたい場所だが、ある意味「お茶屋」と無関係な場所でもない。

……で、みはし上野本店に。

まず、ふわっと卵が入っているお雑煮(http://www.mihashi.co.jp/menu/ozouni.html)をいただく。
写真のイメージよりお椀が大きかった。
削り節の香りが立って、焼いたお餅といい香ばしく、お雑煮好きだけど外でお雑煮を食する機会って考えてみると殆どなかった。
季節を問わず食べたい系なので、アツアツをありがたく平らげます。
そのあとクリームあんみつを(http://www.mihashi.co.jp/menu/cream-anmitsu.html)。
写真のイメージから受ける印象より、これも一鉢が大きい。

あんみつって、好物でもなかったんですが、ソフトクリームの冷たさと、
冷たすぎない餡やみつ豆や求肥(ぎゅうひ)との絶妙なコンビネーションで、
甘いけど甘すぎず、冷たいけどキンキンではなく、何もかもが頃合いで、美味しい。

で、いざカラヴァッジョ展へ!
事前にHPをチェックして、まだやってると確認済みです。
念のため時間もチェックしておいた。問題ない。

ブータン展を開催中の上野の森美術館をわき見しつつ、国立西洋美術館に到着。

閉まってた。

月曜日、思いもよらない休館日……。
いや、美術館や博物館や図書館関係は、そうよね月曜日、要注意だったのに。

おまけにです、精神的にショックだったようで、上野駅の改札でSUICAを紛失。

いやその……チャージ金額が足りなかったので、券売機でチャージしようとしたら、
《ただいま一万円は使えません》

なに?
これからオリンピックやるとか、国際都市の設備投資とかいってるのに、そもそも券売機の少なさが異常だし(……外国人観光客に取り囲まれて日本人がほとんどいない。日本人は切符じゃなくてみんなSUICAやおサイフケータイなどを使うので)
両替機も見あたらない。
なのに一万円が使えないってどういう了見なんだ……どうしたらいいんだ。

大きいお金しかなかったので途方に暮れ、戻ってきた一万円を手にして、近くのコンビニへ。
仕方なく、欲しくもなかったおにぎりを一個買う。
お金を崩して券売機に舞い戻り、チャージしようとしたら、
パスケースに入れていたはずのSUICAが無かったんです。

あー……あれだねー、さっき券売機で戻ってきた一万円を取ったときだね。
SUICAのほうを忘れたんだな。
まぁちょっと面倒な考えごとで頭がいっぱいだったせいもあるし(←言い訳)、
歩きすぎて横っ腹が痛かったし(←言い訳)、
その場で窓口の駅員さんに問いあわせると「届いてます」

迅速!

「お名前と身分証を」

名前を言って、運転免許証を見せて、返ってきた私のSUICA!
紛失時間、5分弱です。

「これ、受け取るの放置して吸いこまれてしまったんでしょうか?」
アメリカではATMにて、ATMカードを放置して取り忘れた場合、
一定時間を置いたのち、ATMの機械がカードを自動的に吸いこむ仕組みになっています。
次のATM利用者が悪意ある人だったら不正利用のリスクが高くて危険なので、
銀行側が保管しておいてくれるのです。

SUICAもそういうシステム?

「通りがかりのお客様が、取り忘れだと届けてくださったものです」
「うわー……ありがとうございます」

その後はどこにも寄らず、家に帰りました。

ささやかな収穫物といえば、不忍池の蓮。
二週ほど前はショボい有様でしたが、今は葉が青々と茂りつつあり。
とはいえ小学校低学年のとき、もっと見渡すかぎり行っても行っても蓮池に感じたんですが、
縮小したのかな。
こうもささやかだったろうか……?

子供目線を思い起こして、しゃがんで写真を撮ってみたら、
写真に映った蓮池は、けっこう視野を埋めつくす臨場感でした。

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2016060614110001.jpg

(いずれもクリックすると拡大します。)

『黒猫ギムナジウム』キンドル化 [ニュース]

いまから遡ること4年半前になる2011年12月1日に講談社BOXから刊行されました、
『黒猫ギムナジウム』
このたびクリーク・アンド・リバー社という電子書籍リーダー用に特化した会社の部門からキンドル化。
講談社Boxは帯の意味合いを兼ねたボックス(外箱)の中にソフトカバーの本が入っているという、
やや扱いずらい代物なのが特色で、
ゆえにデザインが特殊なのですが、
電子化にあたって、marucoさんの当時の装画を活かしたまま、デザインをリニューアル。
金箔風の背景をほどこした題字の字体など、気に入っています。
色も今回のほうが紙本の表紙よりも、本来あるべく色味で断然きれいに出ている気がします。

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書名:黒猫ギムナジウム
価格:900円(税込972円)
刊行日:2016年5月20日

この作品は初出の序章~第四章までが連載作品でしたので、
連載当時、第一~第四章の扉絵はカラー絵だったのです。
(実際は当初から一冊分を書き上げており、それを連載という形で小分けにして発表していました。)
第五章~八章を書き下ろしという形にして、一冊の本にまとめて出版するにあたり、
カラー仕上げだった第一~第四章のmarucoさんの扉絵もモノクロになっていました。

その扉絵部分も、今回marucoさんのカラー版で復刻です!
外箱に描かれていたラフ絵も、作品内にちゃんと収録されております。

元来、紙の本、大好きっ子の私なので、
電子書籍化するなら電子書籍化ならではのメリットや利点が加味されていないと、
おさまりがつかない。
(紙書籍では二段組みの体裁も、キンドル版はもちろん一段組で読みやすく。)

アマゾンKindle楽天Koboを皮切りに、紀伊國屋Kinoppyなどの電子書籍リーダーでも順次、読めるようになります。

電子化にあたり、単行本における誤字・脱字等を修正しました。
修正できる機会に恵まれて良かった。
というのも『黒猫ギムナジウム』での脱字は、意味が正反対に読み取れる脱字であり、
(詳しくは当時のブログ:http://blackcrosssanatorium.blog.so-net.ne.jp/2011-12-03-1
これは当時、初校も再校も終わった段階で、
当時の担当編集者に心無い変更を強いられ、
ぎりぎり妥協できる範囲まで、なんとか変更を加え、メールで伝えた部分のうち一箇所が、
編集者のミスにより脱字で反映された。
――という苦い思い出が。

この本の出版には他にも本当に苦労しました。
版元によって諸々の判断基準は異なるので、
出版社の指針とあれば仕方あるまいと、なんとか苦慮して対応した。
実際のところは講談社の指針でもなんでもなく、
当時の担当編集者が、私の表現方法に逐一ケチをつけたいだけだった。
……と、後々わかった。

私の小説を毛嫌いしていた人だったが、プロの編集者としての仕事は期待していた私も認識不足だったのだろう。
古いバージョンの原稿が校閲に回っていて間違って届いたりとか序の口。
ミスが多発するだけでなく、悪意もあった(この小説の一体何が面白いんですか、売れる実績がない作家の本を出すのに、なんで主張するんですか、と度重ねて言われたりと)、無益なストレスが多かった。

そういった点を含めて、細かい箇所まで、今回すみずみまできちんと思い通りに直せて、
やっと一区切りがついた思い。
といっても当時も体調を崩すまで粘り強く頑張って、試行錯誤のうえできるかぎり初志を通したので、
大体的にがっつり手を入れた部分はありません。
読者にとっては、微細な修正かも。

本当はこのあるべく状態で、紙本での文庫化を目指したいし、
できれば、今はもう講談社の担当編集者が変わっているので、
当時よりも良い環境で、ぜひとも続きを書きたい。

電子書籍には当然デメリットもあり、書体が明朝とゴシックの2種しか選べない。
紙の本で、怜士朗が白雪に宛てた手紙部分の書体などは、
キンドル版ではゴシック体になってしまったりと、惜しいところもあり。

『黒猫ギムナジウム』(講談社)は絶版ではなく、紙媒体の本がまだ市場に出回っています。
一般書店ではもうあまり取り扱われていませんが、
取り寄せあるいはネット書店では入手可能です。
やっぱり本といえば紙!派のかたがたは、
上記の誤字脱字等をやんわりを踏まえたうえで、
これを機に改めて紙書籍を手に取ってくださると、嬉しい。

追記(2016/7/28)



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若冲展脱落です [さ行]

昨日の金曜日、上野界隈に出かける用事があり、
帰りにそうだ東京都美術館で開催中の若冲展に寄っていこうと思い立つ。
若冲は、花鳥風月をモチーフにしつつも毒々しいまでに精巧華麗というイメージで、
一度きちんと見ておきたかった。

混んでいるのは知ってました。

その前の週末で3時間待ちとか、
又18日(水曜)のシルバーデー?とかいう一定年齢いった人が無料で見られる日には、
激混みのニュースがちらほらと耳に入っていた。

でもなんでもない平日金曜の昼下がり。
並んだとしてもまあ30分くらいか。
私だいたいこういうの運が良くて、激混みのニュースが流れていても、
スッと雲の切れ間みたいな時間帯にすんなり入れることが多いんです。
(人と生活パターンの時間配分が少しずれているのと、
雨の日に行動するのが嫌いじゃないせいもあるかもしれない。)
徒歩圏内だったので東大近辺から不忍池を抜けて精養軒から動物園裏を通って……
歩きやすい靴を履いているし、天気も暑すぎず風は肌寒いくらいだし、
ポカリスエット、帽子とサングラスさえあれば何とかなるでしょ……。

甘すぎた。

着いたのは午後3時前でしたが「210分待ち」。
2時間10分じゃないからね。
210分だから。
3時間半待ち。
レア4太刀を手伝い札なしで鍛刀しても、まだお釣りがくるんです。

チケットを持参していなければ、チケット売り場でも待ちます。
(わたしは事前にチケットを買ったとして万一、入れなければ無駄になると思ったので、買わないで出向いた。)

ここまで混んでいると、中に入っても人間の頭を拝む形になり、きちんと見られないし、
宮内庁所有とかの通常、お目に掛かれない代物がごっそりまとめて展示になってる分、
生きているうちに一度は拝んでおきたい系の参拝者、
御開帳とか参詣とかメッカとかに通ずる苦行と御利益的な趣きを呈しているので、
即Uターン。
諦めました。

それにしても整理券を出さないのは、すぐ近くにある他の美術館や博物館に集客を奪われぬよう、足止めを食らわすための、東京都美術館の目論見か。
日頃、東博や上野の森美術館に客足を奪われている鬱憤を晴らして、見せびらかそうとしたのか。
……そう疑いたくなるレベルです。

展示の終わり際ゆえ激混みに拍車がかかっていたけれど、当初はここまで混んでなかったはず。
早い時期に行けばよかった。
映画とかだと、ドル箱メガヒット作でも終わり際になればなるほど空くんだが……。

ここまで長い行列というと、愛地球博の万博を思い出しました。
「早いうちはガラ空きだったよ~地元民ばっかが何回も足を運んでたもんね、俺なんかもう10回は来てる」とか、話しかけられたのだった、そういえば行列の渦中であの時は(知らない人に他意なく話しかけられると、あ、東京とは違うな?と実感します)。
《後半必ず混む》というよりは、メディアの取り上げる時期にも左右されるのだろう。やっているのを知らなきゃ見にいきようがないんだし。

2016052014420000kakou.png

並んでいる人の顔を隠す加工をほどこそうとしたら、吹き出しみたいになってしまった。
思い思い好きな台詞を入れてね。

今後もブログは通常営業 [か行]

Ask.fmを始めてから、
信じられないくらいに当該ブログのアクセス数が激減し、
たまに検索ワード(包丁・殺傷力とか、東尋坊・行き方とか)に引っかかって、
事故的にやってくる人くらいしか、立ち寄らなくなったようなのですが、
このブログは今後もこれまでの不定期ペースで続けていきます。
(むしろAsk.fmに既に飽きかけている。フォントやフォントサイズを変更できないし、自動生成される質問は似たり寄ったりだ。)

元来、物凄くニッチなブログですので、
アクセス数を気にしてはいなかったんですが、
カウンターが壊れたかしら?
というほどなんで……これは何か誤解されている気がしました。



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『南阿蘇水の生まれる里白水高原駅』の由来水源 [ま行]

熊本地震の後、水源枯れる 「日本一長い駅名」由来の地

http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160425000359.html
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160425000360.html
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160425001528.html
(朝日新聞デジタル)

スライド式になっているので一つのリンクをクリックすると、
あとは矢印で3枚見られます。

水源があったころの写真と、現状との差に唖然とします。
こういう実態も徐々に明らかになってくる頃ですね……。


Ask.fmはじめました [Ask]

Ask.fm(質問回答サイト)に登録しました。
べつにブログのネタがマンネリがちで困ってるとか、そういうんじゃなくて。
そういうんじゃないから。

Ask.fmに登録している人は匿名で気軽に質問できるはずなので、
気が向いたら気ままに質問してみてください。

私も気が乗ったタイミングで、答えられる質問にはなるべく答えていきます。
質問をお待ちしてます。

https://ask.fm/YuKaNakazato


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刀剣博物館に行ってきた [た行]

『刃文~一千年の移ろい~』
見てきました。

明石国行が展示されているのは知っていた。
が、我が本丸(『刀剣乱舞』)には居ないし、
出足が鈍っており。

明石国行が展示されていなかったとしても、
刀剣博物館には行きたいと思ってはいたのだが、
二の足を踏んでいたのは、まず場所がややわかりにくい(←方向音痴)。
HPを見ても、土地勘ないし、いまいち良くわからない……。
寒いさなかに木枯らしに吹かれながら道に迷うのは厳しい。

おまけに午後4時までに入館しないと入れない……博物館にしては早いのでは?
午後4時半には閉まる。
金曜だろうと祝日だろうと遅くまでやってないんです。

ですが友人が、
「刀剣博物館は刀剣を見せることに特化していて、
展示方法が最適化されている気がする。
刃文がなにより、くっきりきれいに見えた」
といった内容をしたためていたのを読んで、俄然、好奇心が刺激される。

行かねば! これは!

アクセスですが思っていたほど悪くはありませんでした。
私は初台駅から行きました。
方向音痴の私は悪あがきせずに、交番でお巡りさんに即行、訊きました。
運よく、婦人警官が応対してくれ、
道順の説明は、やはり圧倒的に女性から聞くほうが私には腑に落ちる。
(男性のお巡りさんに道を聞いて、さらに迷ったこと数知れず。)
あっけないほどすんなりたどり着けて、大変助かった。

明石国行の展示は今日までですが、
いつも何かしら刀剣の企画展をやっているので、
これから行く人が、私レベルの方向音痴だった場合として、参考までに道順を記しておきます。

1、初台駅の新国立劇場側の出口に出る。
2、新国立劇場を左側に見つつ、右側の幹線道路および高速道路に沿って、1分くらい歩く。
 すると、目につく一番大きい交差点で山手通りにぶつかる。これをわたる。
3、交差点を吉野家(牛丼チェーン店)方面にわたる。
4、吉野家とライオンズマンションの間にある坂道を下る。
 坂道はかなり急な下り坂で、まるい滑り止め加工がついているタイプの道。
 周囲はちょっとした住宅街。
5、坂道をほとんど下りきったところの電柱に、「刀剣博物館は左側」と表示が出ているので、左折。
 (ポストの手前の電柱。ポストを越えては下り過ぎです。)
6、左折してすぐの電信柱に「刀剣博物館は左側」と表示が出ているので、また左折。
7、なんかちょっとした工事をしていて、ひるみますが、工事現場を横目にしつつ、坂を上る。
(さっきくだってきた下り坂の一本隣の道を、ほんのちょっとだけ逆行して上る形。)
8、工事現場→民家?→刀剣博物館となり、刀剣博物館の白い外観が右手側、すぐ見えてきます。
 文字が書いてあるのですぐわかる。博物館というよりは事務所っぽい感じの建物です。

展示室は2階で、広さは羽田空港ディスカバリーミュージアムの倍くらい?
さして広からず、かといい狭からず。

展示内容は99%刀剣です。鎧甲冑も一揃えあったが、
歴代の刀剣が並んでいて、
ものすごい充実度。

刀剣を見るのに最適化されている、という表現も納得でした。
展示物との距離感が良い。とにかく見やすい位置に配置されている。

照明がおそらくは普通の白熱球?……なので、若干、黄色みがかかって、
たとえば青白い地肌はより明るく、
青黒い刀身の鋼っぽい色味などは、黒々と映る気がしますが、
その分くっきり、刃文との境目が対比でよく見えます。

明石国行は大きくて存在感のある太刀でした。
今まで、刀剣乱舞のキャラクターの印象と、刀身の実物の印象がマッチしている気がしたのって、
私はあんまりないんですが、
(それはそれで面白いからいいんです)

……あ、でも骨喰藤四郎は薄幸そうな、繊細に白々と光る美しさと、
殺傷力の高そうな洗練された感じがキャライメージとブレてないと思ったし、
燭台切光忠も、真っ黒に煤けて金のはばきが残っている外見がそれっぽいと思ったので、
物によります。
でも骨喰藤四郎は薙刀直しの脇差ゆえに、
先端までスッと鋭利な曲線を優美に描いているのが妖しげで魅力なのに、
刀剣乱舞の絵だと、切っ先に角度がついて描かれているのが気になってきたりとか……。
(そんなこといったら現存してない刀剣などは想像で描かれているわけで、
ゲームの範疇だし、問題はない。)

太刀・明石国行の実物は、キャラの明石国行の外見と同一視できる印象を受けました。
(写真撮影不可なので、印象と記憶だけで語ってます。)

刀の手元側、鍔(つば)に近い部分に、
三鈷杵(さんこしょ)の彫刻が小さくほどこされているのが目印。
全体的に黒が勝っている、すらっと大振り、ふてぶてしい存在感を放つ刀剣でした。

刀剣博物館が良かったのは、
特色のわかりやすい配置でもって、刀剣が新旧・刀種ともに、よりどりみどり。
刃文の説明も過不足なくわかりやすく、
並列している英文表記もきちんと過不足ない。
展示物によっては、「これは彫り物を見せるために裏面を出しています」といった記載も的確に明示されている点。
東博の三日月宗近みたいに、しれっと裏面を出して展示されていた気持ち悪さとかが、皆無。

他にも鮫皮でこしらえた柄の装飾品とか、見ていて興味深いものばかり。

個人的にはやはり私は脇差が特に好きなんだなあ……と。

なにしろ太刀は大きいですが、太刀の時代は、馬上の戦いを想定していて、
日本の馬上の騎士は、欧米の馬上の騎士とちがって、盾を持って戦わないから、
長々と大きい刀身の棟の大半は、斬るためというより、盾の役割かと。
そのせいか攻守とも備えた安定感が、若干、面白みに欠けるきらいも。

短刀は純粋に庖丁に似すぎている。

脇差は得物を振り回すのに丁度よさそうな手ごろ感……にしては、
刀身まるごと目の前の相手を確実に斬るために存在している。
守備で耐えしのぐ余地をさほど顧みず、
ただ切っ先に全殺傷力を込めまくっている鋭利な仕立てが、
硝子越しに見ていても危ういし、美しいです。

今回、なにかの試験に出るのか、
説明書きをノートにメモりつつ、
あるいは内容をスマフォの辞書でひいてググり閲覧しつついる方々が多かった。

各刀剣の刀相書きとして添えられている文面が、
古式ゆかしい刀剣カタログに用いられていたであろう、
《重ね厚く、よく詰んで無地風となり鉄色黒味を帯び、尖り刃が連なり三本杉風になり、
小沸つき、匂口締まりごころとなり、僅かに砂流しかかる》(←とある刀剣サイトから抜粋)
みたいな、
(半分くらいはニュアンスで汲み取ってるんだけど、読んでで美しいよね)
特有の言い回しでツラツラと列記されていたのも趣あった。

刀剣博物館は、若干、古ぼけた建物ですが、
展示内容は大いに充実していました。
ちなみにエレベーターはMax3人乗りで、すごく狭い。
ものすごく時間がかかって一フロア分を移動する。
階段を使ったほうが安心かも。
わたしは帰りに乗って、一瞬、不安に憑かれた。


ゲットー解体と『シンドラーのリスト』 [か行]

私がアメリカに留学していたのは2000年前後ですが、
(大学院留学中に9・11が起きたのだった)

留学中の当時、3月のこのあたりの日曜の夜には、必ずと言ってよいほど、
映画『シンドラーのリスト』をノーカットで、みっちりテレビが放映したものでした。
最近この時期にアメリカに居る習慣がないから、わからないけど、
ひょっとしたら今でもそうなのかどうか。

日本が終戦記念日近辺に『火垂るの墓』をノーカットでやったり、
夏休みとか冬休みなど、大きな休みに、ラピュタやトトロや魔女の宅急便やら、
懐かしのジブリアニメをノーカットで放映する風物詩みたいに
『シンドラーのリスト』はノーカット。3時間以上。
たしかFOXが、しかもCMを全く挟まなかった。

大きな場面切り替えの部分で、
~ただ今、ごらんの番組は映画『シンドラーのリスト』こちらの会社が提供してます~
と隅にちっちゃく出すくらいで、全編、全面リスペクト。

ジブリアニメがノーカットなのは、まぁ言ってみればテレビ局側のサーヴィスですが、
シンドラーのリストの場合、がっつりR指定映画ですんで、
土日のゴールデンタイムに、テレビでお茶の間に流せない映画のたぐいなんです。

アカデミー賞を総なめにすると、そのへんが治外法権的な扱いになるというか、
題材的に、ものすごくシリアスでもあるし、
「これ下手にカットすると面倒くさいから全編そっくり提示する、きちんと見ろ」
テレビ局が使命みたいな感じでやっていた印象を受けた。少なくとも私は。

で、題材が重いから、うっかり見るのはやめとこう……と思っていても、
ついテレビをつけたときに見はじめると、もう全部見なければならなくなる。
私を含めた留学生連中の大半が、けっこうそんな感じでいました。

描かれている題材と中身の重要性もさることながら、
映画としても物凄く魅力的にできていて、
重すぎる題材でも長い映画でも最後まできっちり惹きつけて見せる起伏と執念があるし、
技法としても、曲も画面も役者もみんな溶けこんで一つになって世界を作り、映画を構成している。

私が一番最初に見たのは、
日本で高校生だった時、友人3人と映画館に繰り出してで、
いろいろ衝撃で胸がいっぱいで無口になって映画館を出たのだった。
いっぽう友人の一人は「良い映画を見るとおなかが減る」といって、
すぐにクレープを買って、糖分を補給していたのを思い出します。

『シンドラーのリスト』
なぜこの時期にテレビで流すかというと、
題材となっているポーランド・クラクフのゲットー解体が3月13日、14日中心に執行されたからです。

ユダヤ人が殺されるシーンは、いかなる場面でも度肝を抜かれるし、
アウシュヴィッツのシャワー室のシーンはもちろんなのですが、
見ていて一番きつかったのは、3月に起こったゲットー解体の場面。
……なにしろアウシュヴィッツまでいくと、ある程度あきらめもついてくる。

ゲットーの時点では、家や財産を没収されたとはいえ、
最低限といえどまだ人間らしい生活を送っているので、
希望が残っている。
そこに突然ナチスが踏みこんでゲットーを解体しにくるところが、すごく堪(こた)える。

Itzhak Perlman - "Schindler's List Theme"

https://youtu.be/WPsAR9Sx-JQ

家屋敷に住んでいるユダヤ人を、
トランクに荷物をまとめさせ、まずゲットーに住まわせて、
次に、住んでいるゲットーを解体して、夫婦も家族も男女ばらしてアウシュヴィッツ送りにして、
アウシュヴィッツで強制労働に従事できなくなると、ガス室送りに。

その要所要所で、規格外をひたすら殺し、
その場その場の殺害を免れさせたとしても、
坂道を転げ落とすようにして、ユダヤ人を貶めていく過程の、
まず家、宝飾、服、次に髪、死なない順に身ぐるみはいでいって最後にガス室に送る。
一見、無軌道な殺戮と、
ナチス特有の几帳面な緻密さのコンビネーションでひたすら病的、片時も気が抜けない。
(ジャーマン・シェパード犬や、聴診器やらの、ドイツのお家芸である技術の結晶を
ユダヤ人狩りに遺憾なく発揮しすぎる描写も背筋が凍る。)

労働力がほしいから奴隷労働に就かせるとか、
財産没収が目当て、
いやキリスト教化が真の目論見だとか思っていると、
結局のところ民族浄化が最終目的だったんだなというのが、知っているけど途方もない。

当時、わたしは親世代にまで、せっせと『シンドラーのリスト』を、お勧めし、
アメリカでビデオを買って、見てない友人には個別上映会も辞さなかったのだが、
この映画、意外にも人によっては不評。

親世代は、
「ドイツ人でナチ党員のオスカー・シンドラーじゃなくて、彼の下で働くユダヤ人の眼鏡かけたおじさん(ベン・キングスレーがやってたイザック・シュターン)この人を主役にしたら良かったのに」
シンドラーが女好きで遊び人だったのが、気に食わなかったご様子。

……シンドラーが単なる人道家だったり、聖人君子だったりしないナチ党員な史実が面白いのに。
(私は『コルチャック先生』は申し訳ないが途中で寝た。座席が悪くて字幕が見えなかったせいもあるけど。)

聖人君子でなくとも、人道家でなくとも、まっとうな感性の持ち主なら、
ナチスがやってるユダヤ人殺戮を目の当たりにしたら「信じられねー」わけで、
そこで尻込みしなかったのは、シンドラーに博打うちとホラ吹きたる才覚があったから。
真っ向勝負でナチス相手どって戦って勝てっこないと知っているシンドラーは、
手ごわいナチスの高官を相手に、賄賂と買収、汚い手段を使ってでも、
ユダヤ人を助けていく、そこが味わい深い。

拝金主義で、お金の力を行使する快感が大好きなシンドラーだからこそ、
金の力の旨味を最大限に利用する。
全資産をなげうって、ユダヤ人助けに乗り出して、
ナチ高官のアーモンと駆け引きし、取り引きに至る。
淡々と描かれる人間ドラマとしても見ごたえがあるのだ。

ところで、ユダヤ人殺戮ナチスもの映画で必ずといって出てくる、
ユダヤ人がゲットーに移されるとき、ドアの近くで細長い留め金を引っこ抜くシーン。

私は当初、ユダヤ人はドアの蝶番の芯に、ゴールドを使っているのかと思っていました。
歯に金(きん)をかぶせて仕込んでたり、とにかく財産を隠し持つことにぬかりないので、
こんな意外なところに金を使って隠す風習があるのか……
蝶番の芯を外しちゃったら、ドアをうまく開けられないし、Not Welcomeってことで、
家を奪われる者の、せめてもの抵抗か、
と勝手に感心していたのだ。
実際はメズーザー(Mezuzah)という小さいお経が刻まれた厄除けであり、
信仰の証なんですね。

かなり最近まで知らなかった。


共通テーマ:映画

やらない理由を探し中 [や行]

『ブラッドボーン』というゴシック世界ぎゅんぎゅんのゲームをやりたくて逡巡している。
たいていはゲームのムービーを視聴して世界観を確認し、
ま、自分でやらなくていっか、
と流してきていたんだが、これはプレイしたい。

ゴシック世界のゲームはたいてい悪魔色やゾンビ色が強いけれど、
ブラッドボーンはどっちかっていうと吸血鬼系が濃厚な予感もするし……
(特殊な輸血液を補給しながら戦うとか)。
廃墟っぷりが美しく病んでるし、
おまけに口コミでは好評。やらない理由が今一つ見あたらない。



しかしこれまで私はゲーム機を所有してゲームをプレイしたことがないので、
かなり清水(きよみず)の舞台から飛び降りる意気込みが必要なんである。
なにしろ友人が、かえすがえすも「ゲームは時間とお金を吸い取る悪魔の箱」
安易に手を出してはいけないと、
自らの体験に基づいて、親身に忠告してくれるので、
掟のように肝に銘じてきていたのだ!

ゲームは最近で言えば刀剣乱舞沼に若干片足を突っ込んでいるけれど、
あれは軽微なブラウザゲーだし、
あとかつてのルームメイトの家のWiiでもって、マリオで遊んだくらい。
スーパーマリオはけっこう難しく、心折れかけた。
ゲームとはこれまでも意識的にかなり距離を置いていて、
のこる記憶はファミコン時代にまでさかのぼり、
すっごい子供の頃、親せきの家で「ギャラガー」というシューティングゲームをやった覚えが……。

ブラッドボーンはPlay Station 4のゲームなので、まずプレステ4を買わないと。
ブラッドボーンのゲームのソフト自体は数千円なので、
よっしゃやろう!
と前向きになっていたところ、
プレステ4が想像していたより高額なんで、えっ……
怯んでいる。

こんなの時間もお金も余ってる貴族の遊びじゃありませんか。
わたしは、しがない吟遊詩人みたいなもんなんだから、そんな……
でも吟遊詩人も折々のサロンの遊びをたしなむ必要が……。

かなり迷っています(……前向きに検討中ともいえよう)。

問題は時間をどう工面するかで、
刀狩りに費やしている時間を半分でもブラッドボーンにまわせば……。

刀剣乱舞もこういう重厚な装いで再構築してくれないかと願っているんだが、
スマフォ展開するなど、さらなる軽装化をはかるらしく、方向性が真逆であることよ。



共通テーマ:ゲーム

ゴシック映画ばかりを見てきたわけではない [か行]

たまにほとんど発作的に、衝動的に見たくなる古い映画というのがあって、
そのために場所をとるビデオテープだったり(時代を感じる)、
DVDだったりをどれも持ってはいるのだが、
一から全部見てると時間がなくてキリがない。
そんなときにYouTubeは、実にありがたい。
結構な確率で、見たいシーンだけ選りぬきで見られるし……

と、時間を有効利用しているつもりで気が付けば4時間とか経ってるの、
本当勘弁して欲しいよね...。

† シェルブールの雨傘

https://www.youtube.com/watch?v=Zs1NmsA-n-Y

往年の少女漫画や昼ドラは、
この時代の洋画の影響を、もろ受けまくりなのだなあというのも感じつつ、
カトリーヌ・ドヌーヴが可憐を極めていて見入る。

徴兵で別れわかれになった若いカップルが、
なんかいろいろあって、
ガソリンスタンドで再会するラストシーンにと↓。


Les Parapluies de Cherbourg (Finale)
https://youtu.be/JFSsUasp9dw

男のほうは別の女性との間の息子に、フランソワと名付けてて、
先に結婚しちゃったカトリーヌ・ドヌーヴは、彼との間の娘に、フランソワーズって名付けてるとか、
男のほうが、あえて傘一つさしかけてやらないところが、あぁ……まだ好きだから恨んでるんだなぁ。
等々、いろいろ皮肉で、ほろ苦い。

私は2000年あたりにデジタル・リマスターDVDがアメリカで発売になったとき、
初めて見たのだった。
古い映画は、だるかったりしがちなのに、
昨今なじみの映画の原風景的なシーンも多いので、
懐かしいやら、新鮮やらで、今でもたまに見たくなります。

† 太陽がいっぱい(ラストシーン)

Plein Soleil (Scène de dernière) : Alain Delon
https://youtu.be/eFOJfVo7XqI?t=2m18s

このラストシーンはビデオ時代もう本当に何回見たかわかりません。
アラン・ドロンが冒頭あたりでは、猫をかぶってたのが、
どんどん本領発揮しだして、このエンディングを迎える。
ラストの眩しい刹那的な感じが大好きだ。

† マレーナ

Malèna (3/10) Movie CLIP - Causing a Commotion (2000) HD
https://youtu.be/ZTAVOF3D4vY

マレーナ(モニカ・ベルッチ)が町を歩く有名なシーン。

夫が戦争で帰ってこなくなり、父親も死んで、
田舎町に一人、美女過ぎて女性からは、やっかまれ、
男性からも破廉恥な冷やかしばっかり、
食べ物も腐ったものしか売ってもらえなくなり、食えなくなった挙句、
苦肉の策からマレーナが髪を切る。


Malèna (8/10) Movie CLIP - Malena's Makeover (2000) HD
https://youtu.be/zkBkTx-GL8s

マレーナが歩くシーンは何回かあるけれど、
後半になるにつれて、どんどん洒落にならなく苛酷な展開になっていくのですよね。
この映画はオンタイムで見た記憶が。

最近の『007スペクター』でも、モニカ・ベルッチが妖艶な寡婦役で登場してましたが、
この女優、マレーナの映画以来、そういう役がついてまわっている気がしないでもない。

ビデオで持っているが、
古いビデオデッキの健康状態がやや怪しいこともあり、
なかなか見るきっかけを作れない。
次のもそうです。

† セント・オヴ・ウーマン

The Tango - Scent of a Woman (4/8) Movie CLIP (1992) HD

盲目となった傷痍軍人(アル・パチーノ)のタンゴのダンスがキレッキレで味わい深い。
このころの映画は面白かった。
むろん今の映画も面白いが。
当時は一年に、ほぼ100本は映画を見ていました。
このところ年に10本前後を見てるかどうかも怪しい。
もっと見たい……。



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ニコニコとピクシブはもう見ないと決めてる……んだ [最近のお気に入り]


http://www.nicovideo.jp/watch/sm28141915

平野藤四郎は境遇も恵まれてるゆえ、これといった思い入れはなく、
ゲームのしょっぱな、前田藤四郎君と混同して連結してしまった口である。
前田君はマントと小鳥好きなところが可愛い。

その後なかなか平野君が来なかったので、入手するまでの間、
手を焼かせやがって、
くらいに思っていた。

歌詞の「冬はいいけど夏は嫌」を、豊臣側のいち兄(一期一振)が口ずさむと、
曲の解釈が根底から変わって、
これ……冬の陣はいいけど、大阪夏の陣はいやだって意味だ……。

そうしてみるとひとつひとつの「冬」と「夏」の語が重い。
場面に潜む世界観がいちいちやるせない。
平野君が背負ってる罪悪感が痛ましい。
何度目でも夏が疎ましいのか。



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余談 [や行]

信条や思想が自分に近い登場人物で、
物語における肝を語るキーパーソンの場合、
(……性格や外見ではなく、あくまでも信条や思想が自分と通ずる部分がある場合)
長台詞を語っているうちに、作者の地が滲み出てしまうと小説として興ざめなので、
思えばわりと意識的に、声のトーンや、容姿などをきっちりイメージ作りして挑んでいるかも。

みがかヌかがみ』の場合、
瀬〆の叔父様:cv諏訪部順一(敬称略)

青天目氏と瀬〆の叔父様は声がそっくりなので、
必然的に青天目氏も、cv諏訪部順一(敬称略)で脳内再生しながら書いていました。

担当編集者の一人に、「cv諏訪部さんのつもりでした」と明かしたら、
ああ~良いですね♪
という反応でした。

声優方面にそんなに詳しいわけではないものの、
諏訪部さんに限らず声優さんはいろんなタイプの声を演じ分けますよね。
ならば諏訪部順一(敬称略)といったってどれ系の声の諏訪部さんか。
Youtubeを漁って、一番イメージに近い声質だなというのは、こちら。


https://youtu.be/wiP4_UwBvAM
悪魔のリドル 8話冒頭 

無論、小説本という形態で物語世界を表した以上、
登場人物の声をどうイメージするか等、それこそ読者の感性にゆだねられている。
これが正解とか不正解とかではない。
ただ作り手としては、こういう声音をイメージしつつ、口調を紡ぎだしておりました。

あと、獄卒・石渡連水はcv遊佐浩二(敬称略)。
京言葉風で、一から十まで胡散臭そう、イメージカラーが白、得体のしれぬ曲者といったら、
cv遊佐さんの声以外に、しっくりくる声色を思いつくだろうか。
いや思いつかない。

なお夢浄土の全編にわたり重宝される太刀・石渡連水のほうは、
さまざま刀剣の展示場を徘徊していた私が、
……これ! これがまさしく脳内刀剣・石渡連水だ!
と思う太刀に出会い、すでに小説は書き上げていたけれど、
執拗に写真に撮った携帯画像が出てきたので、画質が今一つですが一部を以下にアップ。
(クリックすると拡大します。)

2015070914250001.JPG
2015070914250000.JPG
2015070914490000.JPG
2015070914250002.JPG
2015070914480002.JPG

この太刀には赤字で文字が刻まれているが、
これで文字がなければ、まさに石渡連水!
(比べる対象がないので写真だとサイズがわかりにくいですが)
大きさとか色味とか反りとか刀身の姿、太からず細からず身幅尋常な存在感、
もろもろが、図太い品格と、清潔感が共存していて、
切ッ先とかまで、まさにイメージが具現化されて目の前に存在したようだったです。

人によっては、日本刀なんてどれも同じに見えるかもしれないが、
ほら例えば、こちらの刀剣と比べてみたりすると、相当、様相が異なるでしょ。

2015070914160000.JPG

てやっ!!!

Friendsでチャンドラーが名前を間違って覚えられてて訂正できない話があったけど [は行]

毎年、きちんとした年賀状をくれる友人が、
ここ数年、私の名前・中里友香の宛名部分を、
「中里由香様」とくれる。
高校時代からの友人なので、けっこう長いこと友達やってるし、
このブログにも登場の(大沢たかおファンの)友人である。

すごく字がきれいで、硬筆も筆もいずれも高い位の段持ちで、清楚な達筆。
……なのだが、宛名と住所部分が印刷になって、
賀状部分に一筆、直筆で気の利いたメッセが添えてある感じのスタイルになってからだったろうか。
私の名前が、
(すごい左右対称だな……)
という体裁で届くのだ。

「これって会った時にでも機会があったら訂正してみてよいものかなあ。
揚げ足取るようだし、私は賀状メール派で、年賀葉書で出してないから、そんな奴がおこがましいかな。最初に放置しちゃったから言うタイミング的にも……」
当初は、今まで正しかったし、今年だけのミスだろう、と思っていたのである。
数年続いて、これはどうしたもんだろうか、と思い始めたのだが、
「今更どうかなあ……」

そう、共通の友人で、人形作家のたまきさんに軽く相談してみたところ、
「私ならサラッと言っちゃうかも。字が違ってたよー、今度は直しといてね~って」
「そっかー。でもなんか言いにくい。私も彼女も同じ血液型で、この血液型はこの件は訂正されたら何か傷つく」
「そうなんだ(笑)」
「仕事関係の事務的なミスなら間違いなく躊躇なく指摘するよ。友達だから、ここは有耶無耶に」
「でも社会人なんだし。そこは友達だから間違われると余計に……」
「そう、気になるのよ~」
 ……はぁ。

「ポッと出の知り合いじゃないし、私の本を買ってくれてるわけだから、私の名前をわかってるとは思うのよ。メールでやりとりするときも、私はわりとローマ字表記で書くことが多いけど、彼女にはわざわざ日本語表記フルネームで中里友香って書くようにしてるのね」

汲み取ってね的なジェスチャーなのだが、汲み取ってくれる気配は見られないまま、毎年……。
「あれかな、宛名プリントだけ業者に頼んでて、業者が勝手に間違ってデータ化して、それを毎年更新しているととかかな。自分で簡単に直せないんじゃないのかな。だとしたら見て見ぬ振りを……」
「いや友香さん、いずれにしても、そのくらい簡単に訂正できることだよ」
「だよねえ……」

直接、切り出せないからブログに書いているわけではなく。
なにしろ彼女はこのブログを読んでいない。
些末な事だからこそ、わざわざ切り出しにくいんです。
わりとなんでもはっきり言えるんだが、こればっかりは(笑)
気にしすぎか。


デビュー作 † 黒十字サナトリウム † キンドル版・配信開始 [ニュース]

黒十字キンドル表紙.png
† 黒十字サナトリウム †

紙媒体で絶版となっていた『黒十字サナトリウム』がアマゾン・キンドルで登場です。
徳間書店からではなく、クリーク・アンド・リバー社の電子書籍に特化した部門から販売となります。
……と書くと、まるで徳間書店と袂を分かつ状態になったのかと勘繰られそうですが、
クリーク・アンド・リバー社から声をかけていただき、
徳間書店に快諾をもらって、キンドル化と相成りました。

笠井あゆみ先生が描いてくださった当時の表紙絵を活かし、デザインをリニューアル。
色味も、より原画に近い形で、出してもらっています。
笠井あゆみ先生が、私の物語を読みこんで細かいところまで描き切ってくださった華やかな絵に、
文字通りの黒十字をあしらって、
ゴシック小説であることが、以前より伝わりやすいかと。

徳間書店のSF新人賞受賞作の本は奇をてらった結果なのか、
カバー絵=帯という構造。
絵に宣伝文句が被って、
宣伝文句も見にくいし、誰が得するんだろうこの不思議デザイン……。

おそらく……といっても100%わたしの推測にすぎないが、
日本SF新人賞の創設された当初は、
これでも「斬新な」装丁であったのかもしれない。
でも次第にその新鮮さも損なわれてきて、
表紙なのか帯なのか実際のところ扱いやすさも、いま一つ。
一度は刷新することになったのではあるまいか。
だから、私の一つ前の受賞者の作品は、白い表紙で、一般的な書籍の形になったのでは。

ところがいきなり体裁が変わったせいで、
日本SF新人賞の受賞作を応援していた人たちから不評だったとか。
で、元に戻すことになって私の作品が刊行となったという流れかと思われ。

今回、電子書籍リーダー用に刷新するにあたり、
以前よりもデザインに自由がきいたおかげで、
『黒十字サナトリウム』紙書籍ではカットされていた、
ナースドリーの黒いくるみボタンが並んだ、白くカッチリとした袖口も、きちんと見えるように。

また、右下にいるマントの男の鞄(かばん)も入っています。
わたしは今回、初めて、表紙で切られてしまっていた部分を見るに至り……感動。
それまでマントの男が誰なのかずっとわからないままでいたのだ。
教授かな? アンテックなのかな? 誰なんだろう……

鞄を携えているなら間違いなくアンテック・ランセット、
第六章「絶望を罠にかける」に登場する哀れなアンテク!

『サイコパス』の槙島聖護が「紙の本を買いなよ」と口上をぶつそのずっと前から、
断固、本と言ったら紙の本だよと主張しつづけているわたしとしては、
正直、このたびのキンドル化に、当初は懐疑的だったのです。が、
笠井先生の美しい絵の隠れた部分を発掘できただけで、もうキンドル化する意味は見出せたと思っています。

もちろん、笠井あゆみ先生が私の物語の内容を逐一、的確に再現してくださった絵巻の全体像も、
電子書籍の巻末に、再録しています。
今のデザインだと、レイナの上半身と下半身が分断されてしまうので、
全体像でつながったレイナもきちんと見られる仕様にしました。

この絵、本のカバーの時には気づきにくいのですが、
ミシィカを取り巻くバラは白バラで、
レイナのところで、ほんのり赤みがさして、
湊や龍司あたりになるとローズ色に濃く染まっていくのですよ。

ミシィカとレイナ(もっといえばお母さまの少女時代)あたりは白だったのが、
吸血鬼の血の契約でどんどん赤く染まっていくという、なんてドラマチックな仕掛けだ!
(もっというと吸血鬼になっちゃった人には薔薇が、そうでない人には薔薇がない。)
薔薇一つを描くにしても、漫然と描かずに、物語の意味合いをこめてくださるあたり、
見れば見るほど凝っていて、
笠井あゆみ先生、心憎い。

電子書籍リーダーの利点としては、
背景色や文字サイズを変えられることです。
従来の電子媒体だと、本のページを画像として処理していたにすぎないので、
『黒十字サナトリウム』の二段組の、字が詰まっていて読みにくい体裁であることに変わりはなく、
おまけに紙の本でもないから、長編の読書に耐えうるものであったかどうか甚だ疑問。

そんなマイナス点が解消されています。

黒十字白背景文字大.png
《第三章》
背景白地・文字サイズ大きめだと、こんな感じ。

『黒十字サナトリウム』二段組よりも、
電子書籍リーダー版のほうが読みやすい……。
紙書籍派のわたしとしては、若干の敗北感を禁じえない。

でも槙島いわく
「紙の本を買いなよ。本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。(中略)精神的な調律。チューニングみたいなものかな。調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ」

この点に関しちゃ、紙媒体に勝るものは無いが!

黒十字3章スクショ.png
同じ《第三章》
背景セピア設定で、文字を小さくするとこんな感じ。

画像処理とはちがうので、
文字を小さくすると、
改行位置はそのままに、文字が順繰りに詰まっていく。
字列の字面も変わります。
この仕様にするために、いろいろと手間暇がかかることを、
今回、身をもって知りました。

紙の本を専用の機械で読み取って電子化するのだが、
99.8%くらいの精密度なので、
何百万という文字がある中だと、相当な誤字が発生する。

《耄碌:もうろく》が、《毟碌:もうろく》となっていたり。
毟→むしる、ですから思いっきり誤字なんだが、
機械が似てると認識して、その手の誤入力をする。

《柩:ひつぎ》なんて、何ヵ所《枢》と変換されていたことか!
枢=枢機卿の枢、枢木スザクの枢。
枢は柩ではない、断じて。
物語の性格上《柩》という字が多いし、
紙にプリントアウトできない状態で、
これらを拾っていく作業は神経がすり減りました。
《瀉血:しゃけつ》が《潟血:しゃけつ》と記されていたりだとか、
挙げていったら、きりがないが、
すごい間違いが、しれっと平気な顔してまぎれている。
ルビは正しく振ってあるし、
人間の入力ミスとは違うので、
砂金から黄鉄鉱を見つけ出し、取り除くような地道な作業。

目を皿にしてチェックする過程で、
紙の原文に潜んでいた誤字に関しては、くまなく発見・訂正できました。

いっぽうで機械が犯した誤字・入力ミスに関しては、
(私のみならず入力オペレーターの人の目も、当然通しているのですが、)
誤字がすり抜けてしまっていないかどうか、
いまだ若干の不安は拭いきれません。

電子書籍リーダーで利用できる文字タイプが限られているため、
リーダビリティを考慮しつつ、文字下げにしてみたりだとか、
通常とは異なる、電子書籍リーダーならではの神経を使う局面がちょくちょく発生しました。

通りの瓦斯灯に青い灯が入ったとき.png
《第五章》
個人的には黒背景に白字設定が、一番読みやすい。
物語の世界観にもしっくり馴染む。

SF Japanに掲載された《番外編:逆十字入門》で、
笠井あゆみ先生に描いていただいた扉絵+挿絵2点も、収録させていただきました。
本の時にも入れられるなら入れたかったが、その頃はそこまで気が回らなかった。
たっての願いがかなって嬉しい……。

扉絵として再現できて、読者の方々も、きっと喜ばしいはずです。
雑誌掲載時にはタイトルや煽り文句が入っていたので、
笠井あゆみ先生に再度、原画を送ってもらって、クリアな状態で見られるようにして収録しました。

逆十字入門扉.png
(右クリック禁止)

実際は原寸大で見られます。

逆十字挿絵.png
(右クリック禁止)
わたしはこの挿絵が大好きです。

挿絵はほかにもあと一点あります。

Amazonキンドルを皮切りに、楽天KoBoなどでも順次、配信となります。
今回、電子化用にと声をかけていただいた折、
「紙書籍にもなんらかの好影響があるかもしれません。何もしないよりは」
というのが殺し文句でした。
いつか紙で再販を、せめて文庫化できたらという野望はいまだに抱いています。



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ここだけの話 [か行]

このたびの新刊
『みがかヌかがみ』
この単行本は、シリーズでも続編でも番外編でもなく、
一篇の独立した小説です。

ですが実は、
『黒猫ギムナジウム (講談社BOX)』にチラッと出てくる共通の人物がいます。

黒猫ギムナジウム165pに出てくる磔刑の侍。
猫目坊にむかって「なあ小僧、首を刎ねてくれ、どういうわけか死にきれぬ……」と声をかけてくる、
案山子のようになった人物。

目縁(まぶち)は死斑で黒ずみ、
散斬り(ざんぎり)になってふりかかる髪から兇暴な眼光が覗いていて、
鳥の嘴(くちばし)に内腑を喰い尽されて、幾日も経った様相なのに、
綺麗な目線をいやにまっすぐ猫目坊へと向ける、彼です。
猫目坊が《お手前様は、もう死んどります》と答える、その相手の人物が、
『みがかヌかがみ』の主要登場人物、
不来方で目を覚ます、雨夜城(あまよ・きずき)にあたる。

『黒猫ギムナジウム』を書いている当初から、
この磔刑の武者について掘り下げて書きたいなあ……と。
ぼんやり考えていました。

裏設定というのか、
ここだけの話。

黒猫ギムナジウム (講談社BOX)

K_migakanu_cov_Trim.png

おもてなし感 [あ行]

金曜日、羽田空港美術館ディスカバリーミュージアム(第二旅客ターミナル3階)に行きました。

モノレールに乗ったりと、羽田はアクセスにどうしても交通費がかさみがちなんだけど、
入場料無料と太っ腹な羽田空港美術館。
美術館はかなり小ぢんまりしている一室で、広くない(石切さんの宝物庫展と同じくらい)。

第19回企画展「徳川ミュージアム所蔵品精選 TOKUGAWA IEYASU 天下泰平の軌跡」
メインのお目当ては燭台切光忠でした。
フラッシュをたかなければ写真撮影もOKです。

燭台切光忠は、関東大震災で焼失したと思われていただけあって、
黒く煤けて独特の存在感。
刃文を写した古文書らしき文献も添えられていた。
美術館のポスターに、刀剣のポスターが貼ってあって、
燭台切光忠のかつての刃文を写した古文書の絵図面とよく似た写真の一振りが。
「光忠」とあったので、あぁかつては燭台切光忠もこんな感じだったんだろうなあ……と。
黒地に、水しぶきのあがった波のような白い刃文がひだをなして波打っていて、伊達で艶やか系。

ほかもいずれも「本当に結構なお道具をお持ちで……」
という徳川由来の所蔵品。
水戸の印籠とか。
くだんの印籠の元ネタの逸品かぁ。

羽田空港には、修学旅行生とおぼしき制服姿の高校生の団体が居て、
中には空港らしく荷物がカートだったりする姿もあり、
友人(高校時代からの友達)と、
「修学旅行に飛行機とは」
「ハイカラっすよね」
「わたしなんて京都と奈良」
「超、京都と奈良」

美術館を見終わって、
終点(つか始発)である第二旅客ターミナルから、
モノレールで2~3駅・浜松町寄りにある「羽田空港国際線ビル」で、いったん下車。

ここには展望台というよりもしろ展望バルコニーと言える、広々とした展望デッキがあって、
そこでしばらく国際線の飛行機の発着を眺めてました。
すっごい気持ちよかった。

次から次、一分毎くらいに飛行機が飛び立っていくので、
飛行機好きのわたしからすると、たまらない。
好物がパノラマで展開されてます。

自分が飛行機に乗る立場だと、
広いガラス窓越しに、飛行機が飛び立つのを見て待っているときは、わりとだるい。
また見送りに行くときには、自分も飛行機に乗って旅立ちたい熱があおられて、わりと凹む。

そういうしがらみや、時間的な焦りとか、荷物やお土産や天候の心配、一切から解放された状態で、
お天気な空っ風を浴びつつ能天気に発着を眺めるのは、爽快感がとてつもなかった。

ケータリング貨物で機内食を積載していたり、
到着した飛行機に、ボーディングブリッジの四角い蛇腹が伸びていって接続されたりだとか、
こまごまとした所も、俯瞰で眺めていると、いちいち新鮮。
風力発電の白い風車も見えました。
わたし、日本で生風車を見たの初めてだ。

昼下がりでしたが、日が短い。
日が落ちて暗くなってからも、離発着を眺めにデッキに出ました。
外なので夜はさすがに寒かったが、景色がぐんと変わってまた高揚した。
装飾イルミネーションの夜景とは違って、
ライトアップされた一種工業デザイン的な光彩の点滅がSF的ともいえるストイックな美しさ。

スカイツリーも東京タワーも遠くに一目瞭然で、
スカイツリーの、先端のとんがってるところから光線の矢を放っていくみたいなイルミネーションは、
良くも悪くも、おもちゃみたい。

一緒に行った友達は、最先端テクノロジーのガジェットとか好きなのに、
飛行機を乗り物として信用していないらしいのです。
「理屈ではわかっていても、感覚的に、あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて……」
「なんでそこだけ原始人みたいなの!?」
そんな友人も、おもむろにスマフォを取り出して、カシャッ カシャッ
シャッターを切ってました。

ロングビーチに居た大学院時代、
車を運転して10分くらいのところにシールビーチという海岸があって、
9月10月と2か月間、わたしは毎日、雨の日も風の日も……(ロングビーチはその時期まず雨が降らないので、雨の日はほぼなかった)夕暮れ時の海岸線に行って、一人で日没を眺めに通ってたことがあります。
その時期、咳が止まらなったのだが、海風を浴びているときだけ、これがまったく出なくなるので。
なんかその時の感覚に近い広がりがありました、展望デッキ。
近くにあるなら毎日通いたい……。

この展望デッキは、鎌谷 悠希の漫画『少年ノート』4巻で、
ゆたか少年と、ウラジーミル少年が再会して、
歌をうたって駆けていくシーンの舞台でしょうか……?
(手元に漫画が無いんで、あやふやです)

羽田はいつ来ても清潔感にあふれ、
内装も色々と小洒落ていて、
おもてなし感満載。
モノレールからローカル駅(浜松町)に着いたとたんの落差がエグかった。